私は”足りていない”からこそ、完璧であることを求めて完璧主義の沼へ ~私の履歴書~
あなたの傷に優しく絆創膏を貼るお手伝い、心の保健室マミコです。
台風の影響で、私の暮らす新潟市はものすごい熱波!!
予報では36度でしたが、真夏再来というような勢いで、夕方になってもまだ生暖かくモワンとしています。
私の職場の割と近くに「シャトレーゼ」があるので、出社当番の日のご褒美に…と吸い寄せられる率が高いのですが、今は『シャインマスカットフェア』開催中なので、抗えずに吸い込まれるがままの私。
じゃじゃーーん!
今日のご褒美は「シャインマスカットパイ」。
薄いパイ生地の上にクリームと薄いスポンジが乗っている上に、キラキラまばゆいシャインマスカット。
はぁ~。幸せ。
今日は職場出社だったからこそ、寄り道しておいしいおやつにありつけてニッコニコです。
そうそう!!
Twitterに思わず投稿せずにはいられなかったのですが、出社しようとして駐車場に向かうと、車の間に黒く丸まったものを発見。
えっ?!
真っ黒いネコちゃん??
えっ??
何、どうしよう、ケガして丸まってるのかな…
とドキーーッとして心臓バクバクしながら近づくと、どこかから飛んできた洗濯ものなのか、真っ黒いブラウスが丸くなって落ちていただけでホッとしました。
しかし、蚤の心臓の私なので、思わず声がでちゃいましたしすごくドキリとしました。
どうでもいい前置きをした後で、昨日から始めた「不定期連載・私の履歴書企画」をお届けしたいと思います。
自信がないから”頑張ろう”とした
自分では「バリバリの依存」だと思っていましたが、実はその逆で『バリバリの自立』だった私。
甘えたり、頼ったり、助けてもらうなんてムリ!!!と、一人で立ち、自分で何でもやれるようにならなければいけないと自立をこじらせるほどに自立の道を邁進していました。
自分は駄目だからこそ、足りていないからこそ「頑張ることが必要だ」と思うことがどんどんとこじれていき、知らず知らずのうちに『完璧主義』の鎧を身に付けて、絶対に完璧になんてやれない自分を責めることで自己肯定感を地中に押しやることを続けていました。
完璧主義はキリがないんですよね。
絶対に自分を認めてあげることができなくて、出来た事ではなくて「ここが足りていない」「こうするほうがいい」と不足ばかりを探して揚げ足を取るので、自分がどんどん疲弊していきました。
そもそも、私たちは100点を取れないんですよね。だって不完全だから。
完全じゃない生命体が完全を目指しても、完全って何?!という話なのに、完璧主義の沼にはまり込んでいた時には、そんなことには全く気付けませんでした。
完璧主義だった当時の私が苦しかったのは、自分を常に減点法でしか見れなかったことです。
目標を設定して努力し、自分が疲弊しながらもなんとかそれをこなしても、私は絶対に私のことを褒めてはくれず、出来ていても粗を探して「ほら、ここがダメ」「ほら、ここが雑」と、それはまるでメロドラマの嫌味なお姑さんのように自分をいじめ、努力したことや取り組んだこと、成し遂げたことを労ってあげることができませんでした。
でもなんで、私は完璧主義になっていったかというと、そこには「自信のない自分」がいたから。
役に立てない自分には価値がないし、嫌われてしまう。
私はできないことが圧倒的に多いんだから、人より頑張って「完璧」にできるようにならないと、愛してもらえない。
嫌われることへの怖れと、出来るようになることで愛して欲しい・認めて欲しい・私を見て欲しい、という思いがあったんだと思います。
はみ出さなければ愛される
私の家は、ザ・昭和な「嫁姑問題」があり、父が転勤先で母と出会って結婚したものの、新潟へ戻ることが決まった際に同居をしたのですが折り合いが悪く同居は解消、父の実家の近くの借家を借りて暮らしていました。
祖母がとにかく『クセが強い』人で、癇癪持ちで感情的。
後に精神科に通うようになって薬で多少はコントロールできるようになったものの、ご近所でも評判の気の強さで、だから当然、絶対君主のような存在で、誰もが太刀打ちできませんでした。
対して祖父はとても優しい人で、無条件で私と妹をかわいがってくれました。
私はファザコンならぬ「グランパコンプレックス」と呼ぶくらい、おじいちゃんが大好き!!
無類のおじいちゃんっ子でした。
なぜか子供時代、2週間に1度は土曜日の夕方から日曜の朝まで、1泊2日で「孫だけ」で祖父母の家に泊まりに行くという決まりができ(祖母が会社か何かで他の人がしていることを真似したくて決まったイベント。こういうのはよくありました。)、私と妹の2人で祖父母の家に行くのですが、自由に遊ぶとか振舞うことはできず、祖母の機嫌を損ねないようにふるまわなくてはいけませんでした。
とはいえ、まだ小学校1年生かそこらですから、まぁ、よく地雷を踏むわけです。
そのたびに鬼のような形相でひどい言葉を投げつけられたと思ったら、祖母だけが寝室にこもってふて寝…という、なんとも罪悪感を感じるようなシチュエーションが繰り広げられるので、いつもオドオドと祖母の行動や顔色を窺っていました。
そんなある日、祖父母の家で晩ご飯を食べた後の夜の時間に、事件が起きました。
その日は私と妹がそれぞれ持参した「ぬり絵」を塗って遊んでいました。
女の子の髪の毛をピンクに塗り、私なりに楽しみながら丁寧に塗ったつもりですが、つたなくはみ出した部分もたくさんありました。
ぬり絵を一つ塗り終わったところで、出来た!!とおじいちゃんに見せると、「上手にぬれたねぇ。」と満面の笑みで褒めてくれて私はご満悦だったのですが、ぬり絵で遊ぶ私たちに興味がなかったはずのおばあちゃんが突然私のぬり絵を手に取ると
なんで髪の毛がピンクなの?!
日本人なんだから黒に決まっているでしょ!
それにこんなにはみ出して、もっと丁寧に塗るっていうことができないの??
ちゃんとできないなら、やめなさい!!!
と、私のぬり絵を見て鬼の形相で興奮し、ぬり終えておじいちゃんに褒めてもらったばかりのページを破かれ、目の前で捨てられてしまいました。
何が起こったのか分からず呆然とする私を前に、おじいちゃんが「なんてことをするんだ!」とおばあちゃんに対して怒りだし(当然ですが)、するとおばあちゃんはますます感情的になって収集がつかなくなり、さっきまでぬり絵をして楽しんでいたのがウソのような修羅場。
妹も私も泣きだし、おばあちゃんはわめき散らし、おじいちゃんが状況を察して私の家に電話をしてくれて母が急いで迎えに来てくれ、その日は泊まらずに家に戻りました。
翌日、おじいちゃんが私たちの暮らす家に一人で遊びに来てくれて事の顛末を話してくれたようなのですが、私は自分のせいでとんでもないことになってしまった…という思いでいっぱいでした。
それを察してくれたのか、おじいちゃんは「新しいぬり絵を一緒に買いに行こう」と誘ってくれ、だけれどぬり絵を塗るとまた誰かを傷付けたらり怒らせる…と首を横に振る私に、おじいちゃんはいたずらっぽくこう言ってくれました。
はみ出さない秘密の方法を、内緒でマミちゃんに教えてあげるから、新しいぬり絵を買いに行こう。
そして妹と二人、それぞれに買ってもらったぬり絵を広げると、おじいちゃんはピンクのクーピーで女の子の髪の毛の線をなぞって縁を描き、それから内側に向かってピンク色を塗っていきました。
こうやって先に線を引いてから塗るとはみ出さないんだよ、と言いながら。
「ピンクの髪の毛はダメだよ、怒られるよ!」と言うと、おじいちゃんは笑いながら「何色を塗ってもいいんだよ。外国の人は髪の毛が金色だからね。でもね、おばあちゃんはそう思っていないし”おこりんぼ”だから、おばあちゃんの前で塗る時だけは、黒い色にしようか??おじいちゃんとの内緒の約束だよ」と、私の塗った色を肯定してくれて、いたずらっぽく秘密の約束をしてくれました。
それから少しの時間が経ち、親戚も含めて祖父母の家に集まることがあり、子ども同士でぬり絵をすることになったのですが、私はおじいちゃんから「秘伝の方法」を習っていたので、はみ出さないで上手に塗れるようになり、偶然それを目にしたおばあちゃんから『上手に塗れるようになったのね』と笑顔を向けてもらいました。
あっ!
ちゃんとできれば怒られないし、周りの人も嫌な思いをしないんだ。
もっともっと、ちゃんとできるようになれば、平和な空気を作れるし、認めてもらえるし、愛してもらえるんだ。
その後も私は「足りていない部分」の方が多いので、うまくできないことでガッカリさせたり、おばあちゃんの地雷を幾度も踏み、そうやっているうちにどんどんと『完璧にできるようにならなくては』を強固なものにしていきました。
だって、はみ出さなければ、ちゃんと塗れれば、私の大好きな人たちが笑顔でいられるんだもん。
完璧を目指しても、自信がつくどころか失っていった
子どもの時は、怒られたくないとか周りの人を悲しませたくないという思いから「完璧主義」を知らずに目指していたと思いますが、だんだんと大人になるにつれて、完璧にできないことで自分に対する自信というものを失っていくようになりました。
昨日も書きましたが、嫌われないように、ダメな私に愛想をつかされないように…
そうやっているうちに自分がどんどん自分らしく振舞えずに、八方美人で言いたい事を飲み込むようになっていく中で、自信を持てるようになればもう少しは自分の意見が言えるのでは??と、さらに完璧主義を強化し、思いっきり頑張りました。
私は中学3年生の終わりに、人生初の大きな挫折を味わったのですが、高校受験に失敗し、1年間の浪人生活を送りました。
自分がどこにも行けないことに打ちのめされ、ただ泣いて過ごす日々を数週間送り、仕方がないと折り合いをつけつつも、劣等感と情けなさ、傷付いた自尊心から自己肯定感はますます地中深くにめりこんでいきました。
(後にこの出来事で、塾の先生から学んだ素敵なことがたくさんあるので、いいことも悪いことも同じくらいなんですよね。えへへ。)
浪人した時に、ものすごく頑張りました。
おかげで翌年、志望校に合格できていく場所ができたのですが、その後も私は「頑張ることで自分を助けられる」と思い、何でも自分で向き合い、頑張って乗り越え、自立を強めると同時に『完璧にできない自分がもどかしい!』と自己嫌悪し、完璧主義にギュウギュウに縛り上げられていくようになりました。
頑張る力を身に付けられたことは、決して悪い事なんかではなく、私はその後に頑張ることでたくさんの恩恵も受けています。
特に秀でたことがないにも関わらず、苦しいことも厳しいことも「なにくそ!」とたくさん頑張り、そのおかげで仕事ができるようになり、実力もついて認めてもらう機会も増えました。
でも、増えていくのは「実績」だけで、それに伴うようには自信はついてきてくれず、ボロが出ないように、足りていないことを見透かされたらガッカリされて嫌われる…と不安が増えるばかりでした。
100%完璧じゃない私が、評価されるのが怖かったんです。
自分が自分を「ここまでやれて上出来だよね!」と認めていないのですから、人から認められることに違和感がありますし、認めていないダメな部分がバレるのが、何より怖いんですから。
完璧じゃなくてもいい理由
今は随分と完璧主義は緩められていて「40点でいいじゃない」と言えるようになりましたが、それでもまだまだ完璧主義的な傾向があって『40点は取りたい』という思いはあります。
いつかもっともっとゆるゆるになって、何点でもいいよね~、と自分に言える日がきっと来るはず!!
うふふ、そのためにもっともっと自分を褒めて緩んでいこうと思います。
完璧主義は正解主義で、だから「正しくあること」にもこだわりが強く、白黒はっきりしない状態がしんどいのですが、この世界には白黒つかないものの方が多くて、曖昧な状況に身を置くことの方が多いんですよね~。
それに、私は離婚問題が起きた時に
正しいことが幸せではないんだ
ということを肌で実感し、それがきっかけで正解主義や完璧主義を緩めてもいいと思えるようになりました。
離婚を切り出された理由は『彼に好きな人ができた』というもので、いわゆる不倫というもの。
文字にある通り「倫理にあらず」な、正しくないのが彼とお相手の女性の行動で、有責配偶者ということになるため、法律的にも私に落ち度はなく、すぐに裁判などを行っても負けることはない状態でした。
私は正しい、あなたたちは間違っている!!
そう思うことで自分を何とか奮い立たせるのですが、でも、何をしても悲しくて虚しくて、あんなにもこだわってきた「正しさ」が私にはあるというのに、間違っていなくてもちゃんとしていても、全く幸せなんかじゃないし、正しいから愛されるわけでもない。
と同時に、すぐに気持ちは切り替えられずに執着しまくったので、白黒が付けられない自分にも出会い、葛藤しながらも「グレーであることの重要性」にも気付けました。
決められないんです。
だから、そんな自分を許していくしかなかったんです。
正義はとても不安定なもので、ある日、突然逆転する。
(アンパンマンの遺書/やなせたかしさん著)
この言葉は、敗戦を経験したやなせたかしさんの言葉です。
それまでは「正義のため」「日本が正しい」と疑いもせず、命をかけてまで戦ったのに、戦争に負けることで正義の議論は一転しました。
自分が見ているもの、自分が完璧だと思っているもの、それって別の国では全然違うこともあるだろうし、国どころか「その人その人」で違うもので、だから絶対に100%という評価はないんだ…。
それに、私たちは完璧ではないのだから、努力して奮闘して「97%」という結果を出して自信を持てても、まだ3%が足りないのですから、それがたまたま失敗や残念なことにつながることだってありますし、足りていない3%を不安に思って注視する性質があるんですものね。
なんてったって、私たちは自分の命が危険になるのが一番怖いという本能が備わっているから、どうしてもネガティブなことに注目しちゃうのですから!!
(これをネガティビティバイアスと言います)
正義だって人によって違うものだし、完璧の基準も違うもの。
昨日も書きましたが、神の子イエスや悟りを開いたブッダですら「完璧ではない」のに、凡人の私が完璧って、どんだけーーーー?! ← IKKOさん降臨
完璧にできないから自信がないのではなく、私は私を認めていないから自信が持てないんだ!!
そう気づいたことで、完璧にできない自分に白旗をあげました。
完璧を目指しても、正しくても、私は幸せじゃないことを知ったから。
失敗しても、頑張ったことを知っているのは私です。
幸せではなかったとしても、ダメな私でも、愛されたくて泣いているのを、見ていたのは私です。
それにね!
ドラマ・ルーキーズを見て思ったんです。(イケメンだらけでした。)
完璧だったりちゃんとしているんじゃないからこそ、一生懸命に向き合う姿に人は感動しますし、魅力的に映ります。
挑戦することが、成功したり完璧に極めることよりもステキなことで、カッコいいし、愛されるんだ!って。
完璧になんてできなくていいんだよ。
弱さや隙、ダメなところがあっていいんだよ。
だってその「足りないところ」は、誰かが役に立てるとっておきなんですから。
誰だって人の役に立ちたいですし、大好きな人の助けになりたいのに、完璧で助けを必要としていなかったら??
私はそんな人の前に立たされたら、役に立てない無力感からシュンとなってしまいそうです。
ね!!
だとしたら、欠けていて足りない、ダメな部分があるって「愛される要素」だと思いませんか??
完璧じゃなくても愛されていいんです。
ううん、完璧になんかなれないから、ダメなまま愛されちゃうしかないって腹をくくるしかないんです。
とはいえ、完璧主義は簡単には緩められません。
もっともっと!と上を目指してしまうあなたに、ぜひこの方法をご紹介!!
100点なんて言わずに、もっともっと加点していっちゃいましょ♡
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