哀しみや寂しさは、無理になくさなくていい。抱えて生きる道があってもいい。
あれーー、おっかしいなぁ??
私の隣にチオビーがいるはずなんだけど、よく考えたらまだお付き合いしていなくてビックリだわぁ~。
とふざけて登場してみましたが、昨年、シャインマスカットが一粒入った「ぶどう大福」を食べて、そのおいしさに虜になった途端販売が終了し、1年近く振りのご対面に嬉しくなり、ひとり暮らしだというのに2個買って、2個ともあっという間にペロリでした。
すごく柔らかい大福もちの中には、柔らかくホイップされたクリームとあずき、そしてまるごと1粒のシャインマスカット。
フルーツ大福っておいしいものが多いのですが、これは私好みで、今年も裏切らずに美味しいままで出会えました。
シャトレーゼさん、今年も美味しいぶどう大福を販売してくれて、ありがとう!!!
来年は「あっ!今年も売ってる!!これ、すごく美味しいの。一緒に食べよう♡」とチオビーの分と私の分、2つを買って仲良く頬張れたらいいなぁ。
ムフフ。未来のお楽しみも夢見つつ、今年はひとりであと何回ぶどう大福を満喫できるかな~と、ニヤニヤしています。
* * *
9/16は、愛するギンちゃん・仁くんのお誕生日です。
今年はその日の夜に、オンラインでの「とことん自分を思いやる」と題した心理学講座を開催させていただくのですが、講座が終わってから我が家では
2魂のお誕生日&私の講座のひとり打ち上げ
と開催する予定でいます。
偶然にも1年違いの同じ日生まれのギンちゃんと仁くん。
毎年2魂のお誕生日は、私と元・旦那さんにとって特別な日だね~と少し前からあれこれ買い物に行き、2魂の好きなものを用意して特製ディナープレートを作って、私たちも便乗してお祝いしていました。
今は4魂での家族は「解散!」となり、私はギンちゃんと仁くんの命を託してもらって「3魂暮らし」をしていますが、誕生日が近くなると不意に「家族として暮らしていた時間」を思い出したりして、少し胸がギュッとなることがあります。
私の場合は、私が彼を嫌いになって離婚したという訳ではなく、ずーーーっと彼のことを大好きで、なんとかしようとあれこれ奔走したけれど、それでも彼は私に背を向けて別の女性と人生を共にすることを決め、私にはもう「万策尽きた」という状態で、それでも執着して時間をもらい、ようやく離婚を受け入れることができたので、
結婚した後で、大好きな人に振られて大失恋した
というような状態でした。
結婚する前にも幾人かとお付き合いをさせてもらって失恋は体験しているけれど、いつ、何回体験しても、失恋はいいものなんかじゃないし、慣れることもないものです。
今、離婚したことを後悔しているのか?と言われたら、そうするしか道はなかったし、そうしたことで得られたことも沢山あって、今はちゃんと幸せだから「この道でもしょうがなかったね」と苦笑いしながら言えますが、離婚という結果にならずに添い遂げることができたら、その道を歩きたかったのも私の本音です。
あっ!!!
でももう、結婚していた時のような「彼のことを恋愛的要素で好き」という気持ちはちゃんと消えて、だからといって存在自体を嫌いになった訳ではなく、関わってくれた大好きな人、という心のポジションにいるので、もう”過去のこと”として見れています。
だって、私にはチオビーという好きな人がいるんですから!!!
片思いだけれどね!!
ちょっと話は逸れてしまいましたが、大切な人や対象を失うことを「喪失体験」と呼びますが、その最たるものが死別です。
たとえば現代医学をもってしてもどうにもならない病などと戦う人の側で、全身全霊支え「やり切った」と周りから言われるくらいの状況であっても、最愛の人を失うというのはやはり理不尽でやり切れず、遺された側は、どうにか折り合いをつけて生きていくしか道が残されていません。
神様に対して「どうして?なぜ?」と問いかけたり、時には悪態をついたりしながらでも、どうしようもない現実を”受け入れながら”自分の時間を生きていくしかない。
時間が全てではないし、それが必ずしも力になる訳でもないけれど、でもゆっくりと気持ちをなだめるようにして、喪失と向き合い、受け入れていくんですよね。
私たちの人生の側には、数々の喪失が付いていて、そのひとつひとつを受け入れ・乗り越えながら生きています。
喪失にはいろいろなものがあり、例えば小学校からの中学校へ進級する際に、慣れ親しんだ環境の喪失を体験したり、大事にしていたアクセサリーが壊れてしまったりピアスを片方なくしてガッカリする…という所有物の喪失も、悲しみの程度は軽かったにしても「喪失体験」です。
誰かにとっては簡単に心の痛みや悲しみを乗り越えられる体験であっても、誰かにとってはしばらくはどうしようもない悲しみを抱えたり、不調を背負いながら折り合いをつけていくしかないことがあります。
失った後の傷や痛みは、誰かと比べるものではなく、自分の「こうだろう」という思い込みで決め着けたり助言したりするようなものではありません。
喪失の度合いは、みんなそれぞれに違っているんです。
そこに「正しい・間違い」はありません。
私は今年のハロウィンの日で、離婚から4年を迎えます。
離婚を決める前に「ドカンと大きな失恋による喪失」をしていたので、そこから数えたら7年近く。
私自身はすっかり元気になって、一つの失恋を乗り越えたと言えるくらいにはなったと思っていますが、誰にも見えない私の心には、今でも大きな大きな傷跡は残っていて、これはきっと生涯私の中にある”消えない傷”だと思っています。
傷はあるし、なにかの節にその傷跡に触れてしまえば、「あぁ、こんなことがあったね」と思い出すこともあるとは思いますが、普段はその傷はもうくっついているから、私を悲しみや痛みに引き戻すことはありません。
でも、こうやって今の私に辿り着くまでの道には、いっぱいの葛藤がありました。
失恋というのも大きな喪失体験です。
それまでとっても身近で触れ合えていた「大好きな人」との関係性が死を迎えたように消えてしまい、けれどどんなに気持ちがあっても、大好きな人を失ったことを受け入れていくしかできないんですものね。
喪失体験は、本当に辛いんです。
悲しみは繰り返しせり上がるようにしてやってきますし、寂しさと心細さは夜を眠れなくして、それがますます「大事な人がもういない」ということをクッキリさせて落ち込み、心の痛みだけではなく頭痛や関節が痛んだりという文字通りの痛みを引き起こすこともあります。
日常生活すらままならなくなったり、四六時中頭の中では考えても答えのないことをグルグルしたり、自分に至らないところがあったから…と自責の思いを感じたと思ったら、あの人にも悪いところがあったんだから!!と怒りがわいてきたり。
一日も早く、なんとかこの悲しみや苦しみをなくしたいともがくのですが、そんなに簡単には「大好き」は消えてくれないのが、また困ったものなんですよね。
悲しみは、無理にはなくすことができません。
悲しみは、何かで埋めたり癒したりしようとしても、そんなに簡単にはいきません。
だとしたら、悲しみを引き連れながら、悲しみと共に生きていくことも、また一つの方法だと思うんです。
悲しみが深く強い時には、悲しみと共に生きることは楽しいことでもなんでもなく、苦痛を伴うことではあるけれど、ほんとうにこればかりは「しょうがないん」んです。
すぐに立ち直ろうとして、急ぐ必要はありません。
大切な人、愛する人のことを、無理に忘れようとする必要もない。
愛しているからこそ、悲しみを柔らかく抱きしめるようにして共存しながら、少しずつその悲しみの角を丸くして行けたらいいんですものね。
そこにはやっぱり、ある程度の時間がいるもので、ゆっくりゆっくり、なんです。
哀しみの裏には、それだけ深く「愛した」という思いがあるんですもの、ね。
傷がある自分を、悲しみを抱える自分を、どうぞ優しい目で見てあげて、ゆっくりの歩幅の自分を誰よりも側で支えていってあげてください。
喪失からの立ち直りは簡単なものなんかではないからこそ、人からは分からない苦しみや痛みと向き合っている自分を、うんとうんと労ってあげてください。
喪失を目の前にして、それをなんとか受け入れようと葛藤しているあなたは、すでに十分に頑張っています。
悲しみを抱えながら生きることで、見える世界だってありますから。
それは望んでいたものではなかったとしても、その道のずーーっと先で、いつかどうにかしてきっと、自分なりの折り合いと出会えるはずですから。
その時までは側に悲しみを抱きながら、ゆっくり柔らかく、自分と共に生きていけますように。
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9/16(金)19:30~zoomによるオンライン。
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