お別れしても、きっとすぐ会える。その時は思いっきり手を広げて抱きしめるから”魂ハグ”しようね。
冬晴れの気持ちよい土曜日!
今日は月イチの出社日なのですが、先月からの怒涛の忙しさが少しペースダウンできてきたので、UQ取得しちゃいました~。
有休をとった日がお天気で気持ちいいと、それだけで「1.5割増しで得した気分」になるのはなんでだろう?
冒頭の写真は、ちょうど1か月くらい前にX(旧Twitter)に載せたものの別バージョン。 ← ややこしや
こちらは翌々日に撮った、お銀さまとのラブラブ写真。
自分の顔を「ドーン」とブログに載せるのは、うん、なんかモゾモゾしちゃいます(照)。
ギンちゃん・仁くんの写真はこれまでに
DVDで保存しても15枚以上の量
は撮ってきているのに、一緒に映っている写真はあんまりありません。
普段はテーブルの上に載せっぱなしにしているデジカメを使って2魂を撮影しているのですが、ブログに載せているのはほんの一部。
一回カメラを向けると複数枚シャッターを切るので、撮影枚数が増えているだけなのですが…
ちょっとした角度の違いとか、変顔とか、ブレてるやつとかも全部
やだぁ~。かわういぃぃ~。
削除なんて出来ないぃぃ~。
という「親バカ」が過ぎる状態のため、よほどトンチンカンな写真以外は削除できずに保存媒体に記憶してきた結果が、DVD15枚以上(物置にしまってあるので厳密な数はもう少し多そうです)になっています。
実は、これ以外にも少しずつですが「動いている2魂」のこともYouTubeに残しています。
そんなに撮影頻度は高くなくて、最近は放置気味ですが…
動画を撮りためたいなぁ~と思ったのは、関本 剛先生の動画を拝見したからでした。
関本先生は緩和ケアのお医者様。ご自身がガンになられた後で「ご自身のお通夜・葬儀で流したいメッセージ」を撮影され、メッセージと共に笑顔で手を振っている姿を見て、とっても不思議な「暖かい気持ち」になりました。
メッセージが流される = ご本人はいらっしゃならい
のですが、亡くなられてもなお『動いている』のを目にできるのは、その人をより鮮明に感じられます。
* * *
私たち「命」は、例外なく死にます。
どの命も、持ち時間がどれくらいあるのかは分からないけれど、人間も、動物も、命あるものは必ずいつか『死』を迎えます。
病気になって亡くなる命もありますが、病気じゃなくても、死にます。
さっと一度読んだだけでは、私の理解力では難しかった「ゾウの時間 ネズミの時間」という本によると、時間というものはみんな等しく同じように刻んでいると思いがちだけれど、それぞれの体のサイズによって違う時間の単位があるのだそう。
時間は体重の1/4乗に比例する
(引用:ゾウの時間 ネズミの時間/本川達雄さん著)
※計算式や詳しい説明などは本に書いてありますが、数学が苦手な私には「…」でした
体が小さいほど時間は早く過ぎていくので、人間よりも小さなネコや犬の寿命のほうが、どうしても短いのは仕方のないこと。
生きている「時間」が違うのであれば、どうしようもないことですものね。
自分の命の長さも「絶対に何歳まで生きる」なんて分からないけれど、余程のことがない限り、私が2魂を見送ることになります。
私は立派な飼い主ではないので、至らないところは本当にたくさんあります。
命に対しては「やり直し」なんてできないから、お別れを体験した後で、あの時もっとうこうしていいたら…という思いが出てきます。
至らない点が多いからこそ、後悔や自責はいくらでも湧きあがります。
後悔はつらいけれど、次に大切な教訓として「命が教えてくれたこと」をリレーのバトンとしてつないでいくこともできますし、未熟な私であっても全力で愛してくれた『ペットたち』への愛情は、亡くなってもなお「褪せるることなく増していく」ものでもあります。
冒頭の「2魂と私」が一緒に映っている写真のように、これからは『私も一緒』の写真を少しずつ増やせたらいいなぁ~と思っているのですが、それに気付かせてくれたのがペットグリーフの学びを通してでした。
愛する「Fur baby」(毛皮を着た我が子)の写真は、いつのまにかたくさんになりますが、一緒に生きてきた自分と一緒の写真がないことに気付いて、愕然とされた方の体験談をお伺いしたのがキッカケでした。
実家で暮らしていた時代に一緒に暮らしていた、愛犬や愛兎、モルモットたちを抱きしめている写真はそれなりに残っています。
いつしか死を受け入れて「これまでとは違う形での関係性」に変わった頃、自分が笑顔でペットを抱きしめている写真を見ると、亡くなった命のことを暖かく思い出して笑顔になれました。
ひとり暮らしだと、なかなか「自分も一緒に写真を撮る」という機会はありません。
だから少しだけ意識して、これからは2魂と私も一緒の写真を増やしていきたいな~と思っています。
* * *
高校生の時に、ホスピスについて知り、ターミナルやグリーフといった「理不尽な状況」の側で働きたいと思いました。
頭で考えて…というよりは、内側から「これがしたい!」と気付いた、言わば無意識の層で感じたこと。
あれから全く関係のない仕事や生き方をしていながらも、今改めて、グリーフケアに触れて学び、色々な事を考える時間を持てています。
これがきっと、ライフワークというものなのかな??
ターミナルケアやグリーフケア、どちらにも共通しているものは「死」です。
待つ先に「死」があるか、「死」を体験した喪失があるか、という違いがありますが、そのどちらにも「暴力的な理不尽さ」「どうにもならない気持ち」がつきまといます。
だって、死ってなんなんだよ!!って思いませんか?
なんでもう会えないの?
なんでもう笑ってくれないの?
なんでもういなくなっちゃうの?
なんでその「肉体」すら、消えてしまうの??
私は離婚をする前も「別れたくない」と執着しまくるほどに、別れるというのが苦手です。
好きな存在とは離れたくないし、もう会えないなんて、そんなの苦し過ぎます。
だから漠然と「死」が怖いものとして存在していて、死について考えることを避けるようにしていました。
でも、どんなに避けても逃げても、死からは免れられない。
そう思ったので、死について狂ったように調べまくった時期があります。
とにかく、日本のものから海外のものまで、読める本を読みまくり、死生観に関する各宗教の教えなども調べたりもしました。
でも結局、答えは分かりませんでした。
だってどの話も、どの本も「死んだことのある人」が教えてくれたものではないから。
臨死体験をした方の話も、あくまでも「臨死」であり、死んだわけではないんですものね。
でも不思議なことに、宗教や時代、教育や文化が異なっていても、みんな「言い回しや表現」が違うだけで、死については似たようなことを唱えていました。
ざっくりな表現をすると
肉体は借り物であり、魂は肉体の死後もなくならない
というようなものです。
輪廻転生だとか、光に還るとか、宇宙に戻るとか、神の領域へ戻るとか、天国へ行くとか、もうほんと言い方は色々ですが、死んでも終わりじゃないみたいです。えへへ。(超・ザックリ)
死について調べていた時に思ったのが、理解したいというものでしたが、途中で気付いたんです。
理解しようがないんだろうなぁ、って。
だってね、私は三次元のこの世界で、自分が知覚したり認識できるものには限界があるから。
宇宙は「11次元構造」であるという話や、宇宙の「ヒモ理論」の説明を聞いた際に、あっさり思ったのが「理解、知覚できねぇ…」というものでした。
そう、人間として生き、今の体験をしたいと思っている私の領域では、死というものを明確に言語化したり説明はできないんだろうなぁ、って。
でもいろんな臨死体験談や、死後の世界(というか光の世界)のことを薄っすら記憶している人達の話によると、亡くなるときには「あぁ、そうそう」というように、自分が行く(戻る?)世界のことを思い出して安心して逝けるようなので、その時にきっと分かるのだろうなぁ。
先に、ライフワークかな?という書き方をしたように、自分が意識しなくても「なんとなくこう思う」という無意識の層は、自分だけではなく他の人や宇宙と繋がっているとも言いますよね??
ちょっとスピ的な話かもしれませんが、心理学でも「潜在意識の深い層」のことを『集合無意識』と言っていて繋がっていると言いますし、高次の意識や魂の中に眠る潜在意識として『ハイヤーセルフ』なんていう言葉も出てきます。
人間の死に関しては「人間」なので、調べたり似たような体験をした話、宗教的なものも含めて色々調べることができたのですが、動物の死に関して書かれている書物や教えなどが少ないのですが、それでもやはり国を超えて似たようなことを皆さん言われていました。
・動物は死ぬことを「光の国に還る」と表現する
・動物にとって死は「肉体があるかどうか」だけのこと。魂は死なない
・動物は自分が魂の存在であることを自覚しているため、死を恐れない
などなど。
表現方法や伝え方は、それぞれ「国」「宗教」的な部分で違いがあるけれど、人間の死についてと似たような内容であり、肉体を持つ次元から、いわゆる『光の世界』に戻ったときに、先に逝ったペットたちとまた会える、というのが共通点でした。
でっ!!
あれこれ読んだり調べたりして、理解したい・納得したい・信じたい!みたいに思っていたのですが、これって世間一般でよく言われている『虹の橋』の話と似ていると思いませんか?
死を慰める暖かい話として伝わり続けている、ペットたちが亡くなったときに向かう『天国』のような場所の話ですが、これだけ多くの人に語り継がれていて、希望として伝わっているというのは
知覚するとか、理解するとかに関係なく、もっと深い領域で「そうそう!」と知っていることだから、無意識に惹かれる
のかもしれないなぁって、思っています。
もうね、理不尽な死については、理解とかそんなの追い付かない話ですもの。
理解とかそんなの吹っ飛ばして、なんでか分からないけれどそう思う・そう感じたものを信じていいんだろうなぁって。
「死」は避けられないものであり、私たちは生きている限り様々な喪失を体験します。
でも、不思議と「死」はタブーであると言われてしまったり、死について考えることを避けてしまい、いざ死に直面するとうろたえます。
いや、準備している・理解しようとしても、実際に直面した時にはうろたえて衝撃を受けるのが「死」なのですが、死を見ない振りしているほうが、衝撃もやっぱり大きくなるものです。
死やその後については、誰もが知り得ないことですから正解はありません。
だからこそ、自分なりの死生観や死に対する考え方を持つのは、喪失を体験した際に自分を支えてくれる力になります。
私は、先にも書いたとおり、狂ったように「死」に関する文献を読み(これは今も継続)、心理学やスピ、宗教学、哲学…と調べ、グリーフケアを学ぶ中で
何を思ってもいいし、何を希望や信じるものとしてもいい
と思っています。
私は『光の世界に戻る』という考え方がしっくりくるので、死を迎えるときに『光に還る』んだろうなぁ~とボンヤリ思っています。
そして、ペットたちは「虹の橋」のような草原や丘があるような暖かい場所で、その子らしくありながら、私が肉体を離れるまでを過ごして待っていてくれて、私が光に還る時には『こっちだよ』とお迎えに来てくれると信じています。
また、会える。
絶対に、絶対に。
そしてね、先に逝ってしまった子たちと「人間時間」では長い時間に感じるかもしれませんが、光の速度ってメッチャあっという間だって学校で習ったじゃないですか!!
光の速さは1秒間に30万Kmでしたっけ??
1秒の間に、地球を7.5周もしちゃうくらい「あっ」という間に光の世界の時間が過ぎるとしたら…
お別れしている時間も、光の世界で待っているペットたちからしたら「秒」のようなものかもしれませんよね!!
それになんかね、光って暖かくて眩しくて、幸せいっぱいで脱力しちゃうイメージがあります。
うん、やっぱり死についての本当は分からないし、「死別による悲しみを一度は体験してしまうけれど、光が本来の場所」であれば、悲しみの先にまた出会う時は、あったかくて心地よいはずだから。
光の世界でまた会える!という「私なりの死生観」「死後に関する考え方」を持っていても
きっと、お別れの時には泣きじゃくるでしょう。
しばらくは立ち直れないでしょうし、取り乱すでしょう。
でも、やっぱり
お別れしても、きっとすぐ会える。
その時は思いっきり手を広げて抱きしめるから”魂ハグ”しようね。
光の世界でも、よろしくね。
大好きだよ。