手のひらサイズの幸せのお友達

手のひらサイズの幸せ

『ペットロス・離別・失恋』サヨナラの痛みと哀しみを癒す心の保健室 ~あなたの傷に優しく絆創膏を貼るお手伝いをしています~

MENU

「分かる」「何とかする」を手放し、『分からないから分かろうとし続ける』私でありたい

今年も色々と シールや付箋を買いましたね

ねーっ。
今年もたくさん、大好きなシールや付箋を買い足しました。

ほんの一部でしかないけれど、使おうと思って取り出してみたら、こんなにもいっぱいある!とニッコリ。

だってね、これって「豊かさ」の象徴じゃないですか?

マズローの5段階欲求説でもありますが、私たちは「生命維持」のために食べる・眠るといった欲求を満たして初めて、その次の段階の欲求を持つことができます。

今日食べるものがなくて困っている、という時に「新しいシール買わなきゃ!」なんては思えません。
まずは生きるための食欲を満たすことが最優先事項です。

そして、安全に暮らせる環境や自分の自由になる時間があるからこそ、シールを使って自由時間を楽しもうと思えるんですものね。

今の私は、生きるための基本的なことをちゃんと満たすことができていて、安心して好きなことを楽しめるくらいの「気持ちの余裕」があって、物欲を持てるくらい元気!

さらにね、ご褒美・頑張るためのモチベアップに!と「好きなもの」であるシールや付箋を自分にプレゼントしてきましたが

これらは全部、自分が働いて稼いだお金で、自分のために選んだもの。

「私を思わず笑顔にしてくれる」文房具類は、私が頑張って得られた価値あるものなんです。

だから「こんなにも豊かにある!」とニッコリ笑って、そして改めてかわいいものを眺めてはキュンを注入して、使う事にプラスして「見ること」でもご機嫌になれています。

色んな言葉が不思議な形でつながり合う時間

図書館で借りる本、自分で購入する本、Kindle読み放題サービスで読む本、テレビや映画の言葉、偶然見聞きした誰かの言葉、インターネット上の興味深い言葉。

それらをスマートフォンのメモにパパッと書き留めて残しておくことが多いのですが、それを厳選してノートにまとめるのが私の小さなお楽しみ。

B6サイズのノートに「なんでもかんでも雑記」のようにまとめて書き留めるスタイルを続けていましたが、「ほぼ日weeks」という縦長の手帳を使ったことで『細長いタイプのノート』も使いやすそうだな~と思い、新しいノートをお迎えしました。

新しいノートは「グリーフケア」に関することだけをまとめる、専用ノート。
B6のノートは、それ以外のことは何でもザックリの「自由」な形のノート。

2冊の使い分けをし始めて間もないのですが、雑多の良さもありつつも、専用ノートは「情報が集まっている」分だけ、読み返した時につながりというか、新しい気づきやなるほど~と思えるのがいい感じ!

あまりにも多岐に細かくノートを分けてしまうと、それはそれで私には合わなさそうなので、絶妙に「中途半端」な感じが私には丁度良さそうです。えへへ。

* * *

グリーフケアについて深い学びを始めた際に、一番強烈に感じたのが

私は、何もできない

ということでした。

大切な命を亡くしてグリーフの中にある人はみな、叶わぬ願いを声にされます。

もう一度、会いたい、と。

でもそればかりは、どんなに力を尽くしても、どんなに頑張っても、叶えてあげることはできません。

そしてこの深い悲しみとの共存方法を見つけながら、ゆるやかに折り合いをつけていくのは、本人にしかできないもの。
私は側にいるだけで「何もできない」んだ、と学べば学ぶほどに強く思うようになりました。

何もできないけれど、そもそも「何かをしてもらう必要」もないんですよね。
みんなそれぞれに、自分を立ち直らせる力を持っているのですから。

それでも、痛みが強いとき、悲しみが深いとき、世界が色を失って真っ黒なとき、何も考えられなくなる程に呆然としているときに、ただ「側にいてくれる人がいる」ことが、小さな小さな一助や希望になることがある。

苦しいからこそ「分かってくれる」「分かろうとしてくれる」存在があることで、自分が持つ立ち直りの力(レジリエンス)を発揮していけるのだと思うんです。

その人の持つ「力」を信頼して、その人の葛藤の側にいるだけでいいんだ、と。

だって「グリーフケア」ですものね。
グリーフは直訳すると「悲嘆」。
そしてケアとは「傷つけないこと」「守ること」。

サポートとなると、もう一歩先の「援助的な要素」があると思いますが、ケアはサポートとは異なるもの。

ついつい、何か与えなくては!と思いがちですが、それはケアではなくお節介なことにも繋がってしまいますし、本当に苦しいときには余計な重みが加わったら潰れてしまいます。
「よかれ」の重みが、その人の立ち直りの妨げになってしまうなんて、双方にとって悲しいですものね。

* * *

本や身近な人が語る言葉に感動したり、立ち止まって考えたり、宝物のようにしていて思い出したりすることがたくさんあります。

そしてまた、思いがけずふいに耳にした言葉に、心が揺さぶられることも。

今年、私が何度も反芻した言葉があります。

週末にギンちゃん・仁くんと一緒に実家に泊まりに行った際に、父がつけていたテレビのニュース番組での、名も知らない女性のひとこと。

丁度イスラエルがガザに侵攻した時期のニュースで、そこには瓦礫を前にした市民の映像が流れていました。

そこである女性が、涙を流しながらこの言葉を語っていました。

亡くなったのは、私の大切な人でした。
神様、これを耐える力を私に与えてください。

世の中には、どうにもならない災厄や不幸がたくさんあります。
戦争であったり、自然災害であったり、病気や事故などで命を亡くしてしまうこともあります。

先日「数字のモノサシ」(寄藤文平さん著/大和書房)を読んだときに、ふいにガザの女性の事を思い出しました。

本の冒頭には、神戸を震源とする地震があった時の話が書かれていました。

ニュースを見た朝の段階では「死傷者8名」だったものが、仕事で出かけたときには「50人」に。そして晩ご飯を食べる時間には「800人」にまで増えていたそうです。

「これは1000人いくかもね。」
死亡者数が増えるにつれて、感覚が麻痺していくのが自分でもわかりました。
最初に8人と聞いたとき、少なくとも人が死んだことの重大さは感じていました。それが800人まで増える間に、僕はどんどん何も感じなくなっていたのです。
死者ではなく、数字だけが増えていく感じ。
中華丼を食べながら、自分が、800人が1000人になることを、8個が10個になるみたいな感覚で考えていることに気がついて、なんともいえない嫌な気分になったのを覚えています。
(引用:数字のモノサシ/寄藤文平さん著・大和出版)

何か大きな衝撃を伝える時に、そこには「死者数」が含まれることが良くあります。

イスラエルとガザのニュースの時にも、爆撃による死者数の話も同時に報じられていたはずで、多分「起きて欲しくない」と思わせるほどの数だったはずです。

数のことをあまり覚えてはいないのですが、その数の中にある「人」である女性の言葉は、とてもとても印象的で、忘れることができませんでした。

この「死傷者」の数の後ろには、この人たちを大切に思い、愛している人たちがいる。
その人たちは皆、悲嘆を抱えていて、自分では受け止めきれない苦しみがあるからこそ

神様、これを耐える力を私に与えてください。

と祈るのだろう、と。

耐えるしかないんですものね。
受け入れがたい現実があることを、なんとかして認め、折り合いをつけて生きて行かなくてはいけないのですから。

本の言葉からガザの女性を思い出すと同時に、これも少し前に読んだ「伝わっているか?」(小西利行さん著/宣伝会議)という本の一節を思い出しました。

3.11の時、ほとんどのテレビや新聞が「2万人が亡くなった多くな事件」として報道していた時に、「2万人が亡くなった1つの事件じゃなく、1人が亡くなった事件が2万件もあった」と考えよう…と言った人がいる。
それは小さな違いじゃなく、人間として本当に大切な視点の発見だと思う。僕たちはそういう意識で世の中を見なければいけない。
(引用:伝わっているか?/小西利行さん著・宣伝会議)

1人の人を亡くす悲しみが、2万件あった。

2万という数の中にある「1人」のことを、心から大切に思い、愛し、たくさんの幸せな時間を作り上げ、同じ景色を見てきた人がいる。

ノートを広げながら、バラバラに読んだこれらの本や言葉がそれぞれに力を持って結び付いて、私の中で大事にしたいことを書き留める時間になりました。

愛する人や命を亡くした人がいる。

例えば、配偶者。
例えば、子ども。
例えば、親を。
例えば、友だちを。
例えば、ペットを。

目の前で悲嘆にくれる人の「亡くした対象」を思う事はできるけれど、でも私には、到底わかり得ないのだ。

愛する人と見てきたものを、作ってきた時間を、どんなに互いを必要としていたのかを。

100人いれば、100の関係性があり、その命と作り上げてきた時間のことは、どんなに想像しても私には分かり得ない歴史がある。

その命が生きた証があり、その命を愛する人がその側にいて、理不尽な現実を前に「耐える力を持とうとして頑張っている」。

私はその人のことを、その命のことを、何も知らない。
だからこそ、分かろうとし続けたい。
分かり得ないからこそ、分かりたいと側にいたい。

だからといって、私に何かができる訳ではありません。
耐えて、受け入れて、自分なりの歩みを進めていくことができるのは、悲嘆を前にしたその人にしかできないから。

それでもね。

ガザの女性が神様に祈り求めた「耐える力」のひとつになれるような、分からないからこそ「分かりたい」と耳を傾け続ける私になっていきたい。

ノートに書いたのは、こんな言葉でした。

立ち直る力はその人が持つもの。
私はその「力」を発揮できるまでの『耐える時間』『心細い時間』の側にいて、気持ちを『分かろう』とし続ける存在。
そして、その背を優しく暖かく撫でることができる「暖かい手」を持てるように。そっと触れるだけの、優しい手を。

その人がもつ力と、その人にとっての「受け入れる時期」があることを信頼して、傷付かないようにケアの面で出来ることに祈りを込められるように。

目の前の人と、その人の大切な人との時間のことを、別れないのなんて当然です。
測り得ない深さ、編み上げてきた時間、その人としか出来ない体験を積み重ねてきているのですものね。

ガザの女性が神様に求めた、「これを耐える力」のひとつになれるように。

年末の自分時間。
自分のためのノートをまとめながら、思ったことを忘れてしまわないようにブログにも書き残しておこうと書きました。(てへぺろ)

今日もキンと寒い冬の夜。
インフルエンザが猛威を振るっているようですので、お互いにできる予防を心掛けて過ごしましょう♡

さーて、今日はお家で一人晩酌しちゃおっかなー。
いえーい、寒波ーーい ← 最後は凍えるような親父ギャグ

友だち追加
  • HOME
  • >
  • 考え方
  • >
  • 「分かる」「何とかする」を手放し、『分からないから分かろうとし続ける』私でありたい