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『ペットロス・離別・失恋』サヨナラの痛みと哀しみを癒す心の保健室 ~あなたの傷に優しく絆創膏を貼るお手伝いをしています~

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七夕の日の祈りと、自分がどれだけ幸せであるかを考えたこと

今日は七夕って言って ロマンチックな恋人の再会の日って マミコから教えてもらったですよ

天の川を隔てて離ればなれになってしまった織姫と彦星が、年に1度の再会を果たす日、七夕。

そんなロマンチックな日ですが、梅雨の時期と重なっていることもあり、雨の日の確立の方が高いんですよね…。
今年は梅雨明けが早かったこともあり、新潟地方は久しぶりの「雨のない七夕」を過ごせています。

晴れてはいるのですが、残念ながら雲が空を覆っているため見上げても天の川が見えず、でもきっと空の上で、愛しい人に会う事を指折り数えていた二人が微笑みあっているんだろうなぁと想像して、勝手に胸がキュンキュンしています。

織姫ちゃんと彦星さん ラブラブでち…

あはは。
確かに織姫と彦星が手を合わせて見つめ合っていて、ラブラブだね!!!
くーーっ、羨ましいぞ!!

先日「レモンスイーツ」を買った時に、スーパーでこのブッセを見つけて買っておいたのですが、せっかくならば食べるのは七夕当日にしようと、指折り数えていました。

ブッセってお土産などでいただく事はあるのですが、自分で買って食べる事ってあまりないお菓子。
久ぶりに頬張ってみたら、フカフカっとした軽いブッセ生地の中にクリームがたっぷりで、あっという間にペロリ。

チーズブッセの方は、つぶつぶチーズ入りとありましたが、角切りチーズの塩気が利いていい感じ!!
レモンブッセはレモンピールと書いてあったので、少し酸味の利いたクリームにピールの苦みがある大人味かな?と思っていましたが、苦みは感じずにほのかにレモンの香りがするほのかな甘さのクリームが「初恋の味」のようでおいしかったです。

一応ふたつ買っておいたのですが、それというのも…

買ってから2日の間に、なんでか分からないけれどチオビーとお付き合いすることになったら、仲良く1個ずつ食べるつもり

だったんです。えへへ。

まさかの奇跡が起きるのか?!と、昨日も今日も、ゴミ捨て以外は家から一歩も外に出ていないので、連絡先も知らないチオビーとどうやったら奇跡が起きるのか…という話ではありましたが、妄想も込みで「もしかして、叶っちゃったら。どぅふ♡」とニヤニヤしている時間だって、片思いの醍醐味!!

来年の七夕では、願わくば隣に素敵な彼がいて、雨が降っても晴れても、一緒に七夕のブッセを食べれますように。

私の暮らす場所の近くに図書館がある事が分かり、今年の春先からいろんな本を借りて読んでいます。

事前に図書館のインターネット蔵書検索で読みたい本を探し、まとめて予約して3~5冊くらいを借りてきて1週間くらいで返却しているのですが、週に1度の出社当番日に予約してた本の受け取りと返却をするのが最近の私のパターン。

今週も火曜日に図書館に行ったところ、図書館前のスペースに笹の枝が飾られていて、その下に『ご自由にご記入ください』と短冊やペンが用意されていました。

わーーい!!!
七夕の短冊を書くの、大好きなんです。

ピンクや黄色や緑の画用紙を切って作られたカラフルな短冊の中から、大好きな水色を選択して、ペンを持って深呼吸。

お願いは2つあったので、どちらかひとつ…もいいのですが、別に遠慮する必要もないわけだから、欲張りを発揮して両方とも書いちゃいました。

●チオビーと結婚します
●2魂長生き

もうね、遠慮しないで自分の願いを宣言しちゃおう!!と、ちょっとだけドキドキしながら書いた「結婚します」の文字。

だってお付き合いもしていないのに…って思考はあれこれと言ってくるけれど、私はまた大好きな人と結婚をして家族になりたいという夢を持っているんだもん。
今、大好きなのがチオビーなので「チオビーと結婚する」というのが願いだけれど、チオビー以外の人であれ、私にとって最良のパートナーに出会って、私にとって望んでいる関係を築きたいんだもーーん!!

欲しいもの、叶えたいもの、こうなりたいという夢は、まずはそれを「私の願いだ!」とちゃんと認めなかった舵が切れないですもんね。

照れ臭いとか怖い気持ち(叶わなかったら恥ずかしいとか、傷つかないように保険をかけて自分を守っているのか)、または自分がそれを望むなんて分不相応だ…と委縮したり、そのどれもが全部絡み合っているとは思いますが

本当に欲しいものを「欲しい」と言う事ができない

という事って、皆さんの中にもいっぱいあるのではないでしょうか?

短冊に「結婚します」という叶えたい願いを書いてみて、自分の中にまだたくさんの「本当に欲しいものを見ないようにしている自分」というのがあることに気付くことができました。

それはお金に対する思いだったり、仕事に対するものだったり。

自分が過去に体験した辛い気持ちや痛かった出来事から、自分を守る為に「本当に欲しいもの」を欲しいと言えない自分を作り上げているけれど、やっぱり「こうなりたい」をちゃんと自分で認めないと、結局は取りこぼしたり、叶いそうでも手を出せない…なんて残念なことになるんですもんね。

叶う、叶わないは二の次です。

まずはちゃんと「叶えたい」「欲しい」「こうなりたい」に素直になって、それを短冊に書いたことが私の中の大きな一歩。

うん、私はまたちょっと成長したみたいです。
うふふ、ばんざーーい。

図書館で借りてきた本ですね

私はKindleの読み放題サービスを利用しているので、図書館とKindle本を両方活用して本を読んでいるのですが、Amazonの機能で読んだ本を元に「オススメがあるよー」と紹介された本の中に、気になった本がありました。

その本の情報を見てみたら、読み放題サービス外で紙の本もあるようだったので、図書館の蔵書検索をしてみたらあるではないですか!!!

借りてきたのは、近藤崇さんというお医者さんだった方の「僕の声は届かない。でも僕は君と話がしたい。」という一冊。

近藤さんはやりたい事や希望がいっぱいだった「これから」という28歳の時に突然脳梗塞で倒れ、4カ月もの間意識を失い、意識を取り戻した時には、体の自由・表情を変化させる力・食べる事・聴く事と話すことが出来ない状態になってしまっていました。

本の中にも書かれていたのですが、意識はあって思考することができるのに、それが伝えられない事の苦しさは、想像を絶するものでした。
だって、耳が聞こえないから話しかけられても分からないんだ!ということを伝えたくても、喋るという機能も脳梗塞で失っていて伝えられないがゆえに、誰にも分かってもらえないんですもの。

近藤さんが意識を取り戻した後、言葉を話さないことに関して周りの人は、脳梗塞の後遺症などから「言語に障害があるのだろう」とは想像することが出来るけれど、

話せなくても聞こえているだろう

と、4カ月の眠りから覚めた近藤さんに、とにかくいっぱい話しかけてくれたり好きな音楽を聞かせてくれたりと、近藤さんのために愛ある行動をたくさんとっていたそうです。
検査や治療に関しても、看護師さんたちは「聞こえている前提」で説明をしてくれるけれど、近藤さんには何も聞こえていないので、これから何が行われるんだろう?と、全てが怖かったと書かれていました。

私は医療に関しては知識がありませんが、医師であった近藤さんは、想像力を働かせつつも自分の状態を知りたい・理解したいという思いがきっととても強かったのだろうと思います。

体の自由も聞かず、話すことも、聞く事も出来ない中で、思考だけはできる状態。

延々と頭の中でのおしゃべりは止まず、もどかしさと虚無感と絶望と、周りに家族やたくさんの友人が集まってくれていてもコミュニケーションがとれない孤独感から、近藤さんは「死」を考えて自殺したいと思ったそうですが、自殺することすらできなかった…という言葉を読んだ時、その状況を想像しただけで胸が締め付けられて涙がボロボロ出ました。

その後、お母様が「聞こえていないのでは?」という事に気付き、そこからリハビリを通して、タブレットで気持ちを伝えるコミュニケーションが取れるようになっていかれたのですが、本の中にかかれていたこの言葉が、私には特に胸に刺さるものでした。

私は喋ることが出来ない。
常に自問自答の世界に生きている。
(中略)
「人間は考えることが出来る唯一の動物だ」という言葉があるが、私に言わせれば「人間は考えていることが『言える』唯一の動物だ」
(中略)
もし数多ある障害のうちたったひとつだけ治るのなら、私は喋れるようになりたい。
もしそれが出来たらどんなに幸せだろう。
僕の声は届かない。でも僕は君と話がしたい。 / 近藤崇さん著より引用)

近藤さんは「食べること」も「体を動かすこと」も、「聞くことも」「表情を作ること」もできないという、数々の障害を負うことになった中で、たったひとつだけ治るならば

喋れるようになりたい

と言っていました。
そして喋れるという事が「どんなに幸せだろう」と。

健康で誰の力も借りずにベッドから起きて、自分の足で動いたりトイレに行けること。
音楽やテレビを見て音を聞いて笑ったり感動したりすることができること。
自分の頭の中に浮かんだことや、悩みや、喜びを「話して伝える」力を持っていること。
コミュニケーションが下手であろうとも、笑ったり困ったり…と、自然と表情が変化すること。
生命維持のために栄養を取るのではなく、味を感じて食事をすることができること。

日常の中でごくありふれた「当たり前で意識もしないような事」が、どれだけ幸せな一つ一つであるのか、私たちは失うまで気付けないんですよね。
すでに溢れるほどの幸せに包まれて生きていて、幸せが当たり前だから、気にも留めないんですよね。

リリー・フランキーさんの著書、東京タワーの一説にもこのような言葉があります。

人にとって「当たり前」のことが、自分にとっては「当たり前」ではなくなる。世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては「奇蹟」に映る。
東京タワー / リリー・フランキーさん著書より引用)

あちこちにありふれている「当たり前」「普通の事」が自分には届かないと思う時、私たちは本当に途方に暮れます。

なぜ自分にだけは「当たり前」が届かないのだろう?

それくらい「当たり前の事」は幸せや恵まれた豊かさにあふれているんですよね。
でも不思議なことに、当たり前は「当たり前すぎてその価値が見えなくなる」んです。
だって、当たり前だから感謝や喜びを感じる特別なものじゃないんですものね。

でも私たちが「当たり前にしている」、食べれる、動ける、話せる、聞こえる、笑ったり泣いたりする全ては、ものすごい奇跡の上にある幸せなものなんです。

今、ターミナルケアの勉強をしているのですが、その中で私たち人間が苦しむのは

当たり前にできることが一つずつできなくなっていくこと

だという事を学んだ際にも、今の「不自由なく動いたり食べたりできること」が、かけがえのないものだと思いましたが、またこうやって、出来れば体験したくなんてなかった病気を患ってしまった近藤さんから教えてもらいました。

叶えたいものを描いたり、欲望を持てるのも、当たり前のことが当たり前にできているからこそ願えるんですものね。

七夕の短冊に「当たり前の事」を願わなくていい私たちは、もういっぱい幸せを手にしています。

夢を見れるって、やっぱりとても幸せなことです。

七夕の日。
今すでに存分に幸せと奇跡を手にしていることを大事に思いながら、当たり前をこの先も「当たり前」だと思い煩うことなく感じ続けて、夢や願いを描ける日々が続きますようにと、短冊ではなく曇り空の上の輝く天の川にそっと祈りにして届けた夜でした。

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