嫌われたくない、人の顔色をうかがい自分の存在を消し続けた過去 ~私の履歴書~
あなたの傷に優しく絆創膏を貼るお手伝い、心の保健室マミコです。
ギンちゃん、仁くんが紹介してくれている通り、またしても「なんか思いついちゃった企画」なのですが、実は密かに温めていた企画をスタートします。
題して、私の履歴書シリーズ!!
ヒューヒューヒュー。ドンドンドン、パフパフ。 ← ひとりにぎやかし
私の履歴書企画とは?
私は今、ようやく自分と仲直りを果たし、自分を大切に思いやって生きられるようになりました。
自分の歩幅で、自分の感覚で楽しみ、自分の心地よさを大事にして、そりゃぁ人間なので時には落ち込んだり悩んだりしつつも、毎日を思い煩うことなく朗らかに暮らせるようになりました。
自分を思いやって愛せるようになったのは最近の話で、私はずーーーっと「私なんかじゃなければよかった」と自分に対して思っていましたし、私はなぜ生まれてきたんだろう??とすら思っていました。
自己肯定感は地中深く (地殻を通り越して下部マントルくらいの場所まで)めり込んでいて、自己嫌悪・自己否定の達人でしたし、同時に完璧主義かつ平和主義で、めちゃくちゃに八方美人でした。
100%他人軸で生きていて、いつも人の顔色をうかがい、自分を周りの人に明け渡して生きていました。
子どもの頃から精神的にも不安定な部分があり、小学校6年生の時にストレスから胃潰瘍と十二指腸潰瘍になり、病院へは行かなかったので診断はされていませんが、手を洗うことがやめられない「強迫性障害」ような症状も持っていました。
唯一、私が自由で楽になれたのが、妄想の世界でした。
本を読むのが好きで、本の世界を想像しては自分なりの憧れや心地よさを妄想し、その世界で何とか自分の気持ちを消化させていたんですよね。
いわゆる「慰み」「ファンタジー」ではありますが、私は妄想という逃げ場があって、そこでは私の世界を持つことができていたから、なんとか自分を保てていたんだと思っています。
そんな私の「過去のことを振り返る、私の経歴・履歴」を、私の言葉で書いてみよう!と思い、この企画を考えてみました。
一生懸命に自分を肯定したいと思っている人や、自分を生きられずに葛藤している人に、ほんの少しだけでも「自分を嫌っていても、自分を大事に出来る可能性はあるんだよ」ということがお届けできたとしたら、きっと過去の私のダメだったあれこれも浮かばれるかな??
☑︎ 周りの人に普通に起きる幸せが羨ましく感じるほどに、自分が不幸に感じてしまう
☑︎ 自分には価値がないと感じる
☑︎ 完璧にできない自分が情けない(完璧ではないといけないと思う)
☑︎ 思考ばかりして先回りして気疲れする
☑︎ 自分を犠牲にすることが当たり前
☑︎ 尽しても振られてしまう
☑︎ 何をしても自分に自信が持てない
☑︎ 人生に絶望を感じている
☑︎ いつも何かに焦っていて疲れている
☑︎ 自己否定だけは誰にも負けない自信がある
☑︎ 平和主義でいつも周りの空気を読んで疲弊する
いつだって隣の芝生が黄金に輝いて見えて、自分には何もないと思い、やみくもに頑張って何かを成し遂げても「まだ足りない」「あっちにはまた別の凄いものがある…」と、自分が達成したことを認めてあげることも出来ずに奮闘し続け、自分をすり減らして生きてきた私です。
何でも自分でやれるようにならなくては!と、自立三点セット(頼れない・甘えられない・弱音を吐けない)を身に着け、一生懸命に生きてきました。
自分を肯定しよう!分かってあげよう!と思うものの、私の場合は何もかもが上手くいかない人生だったので、マイナスからのスタートで、なんども自分に向き合っては挫折し、今世では自分を愛するなんて絶対にありえない!!とまで思っていたのに、こんな私でも自分の理解者になれました。
自分を愛することは、自分の人生を大きく変えてくれます。
そしてそれは、何歳からでも可能だと私は思っています。(なぜなら私がそうだから!!)
人より歩みが遅くとも、遠回りしたり、途中で休憩して立ち止まっても大丈夫。
私も全く同じで、自分を肯定しようと思ってから何度だって挫折していますから!! ← ドヤ顔
自分を愛することを諦めそうな時、自分を否定してしまってつらい時、ほんのちょっとだけでも「まだ希望はあるのかもしれない」と思ってもらえる何かになったらいいな。
そう願って考えた「私の履歴書」企画です。
嫌われたくない!という呪い
私は子どもの時から自分のことが「恥ずかしい存在」「ダメな存在」「何をするのもワンテンポズレるノロマ」だと思っていたので、いつも人の目を気にしていました。
私たちには生まれつきに持っている「承認欲求」という、認められたら嬉しいという気持ちがあります。
だから誰だって、認めて欲しいという思いを持っています。
程度の差があったにしても、SNSなどで「いいね」をしてもらえればうれしいですもんね!
誰だって「嫌われたくない」し、出来れば認められたいんです。
でも、嫌われたくないという思いが大きくなりすぎると、まるで呪いのように自分を縛っていきます。
嫌われることを怖れると、周りの人にどう思われるかが気になり、自分らしさを表現できなくなります。
自分の思いを伝えることよりも、この言葉で「合っているのだろうか?」「嫌われることをしていないだろうか?」と、正しさや評価の方を大事にし、常に人の顔色をうかがい、ちょっとした言葉尻や表情までも気になり、家に帰ってきてもそのことで頭がいっぱいで休まらなくなります。
周りの人の表情が曇ると、私が何かしてしまったのではないか?あの一言が余計だったのではないか?調子に乗りすぎちゃったのかも…と、グルグル考えだしてネガディブな妄想はどんどん膨らんでいきました。
でも、怖くて「私が何かしちゃったかな?」とも聞くことすらできないんですよね。
そんなことを聞くと、「自分がしたことすら分かってないの?」と呆れられて、嫌われるのが怖いから。
他愛のない内容のLINEやメールでも、返事が来ないと徐々に心臓がバクバクして、不安で何度もスマートフォンや携帯電話をチェックし、「私が何か気に障ることを書いてしまったのかな?」と気になってどうしようもなくなり、そのことで頭がいっぱいで週末も何もできず落ち込みまくり、「忙しくて返事できなかったよー」という言葉が来て、ようやく胸を撫でおろしていました。
悪口や噂話が出ると、次は自分が言われちゃうのではないか?とビクビクして、その場に合わせるようにぎこちなく笑い、自分が誰かにとっての不満や地雷を踏まないように細心の注意を払い、家に帰ってくると疲労困憊。
週末にはほぼほぼ寝て過ごさないといけないくらいに疲れ切っていました。
会社の飲み会も、友達から誘われる合コンも、ちょっとしたお誘い全てにおいて、乗り気じゃなくても断ったら嫌われる・嫌な思いをさせるのでは?と思い、断れないし嫌だということも言えませんでした。
何か理不尽な事や、嫌な事をされても「大丈夫です!」と困った顔をしながらも笑い、自分が傷つけられて苦しくても、自分を守るために怒ることもしてあげられませんでした。
悲しい時も、苦しい時も、しんどくてヒーヒー言っている時も、自分よりも周りの人の顔色や言動を見て行動し、全然大丈夫なんかじゃないのに『大丈夫!大丈夫!』と融通を聞かせ続け、自分自身がボロボロになっているのに
それが好きでやっているんだろう
と思われ、感謝されるどころか「八方美人で便利な人」というポジションに収まってしまっていました。
今だから思うこと
あの頃のような「嫌われるのが怖い」という強い思いは弱まったとはいえ、私は今でも「出来れば好かれたい」「認めてもらいたい」という思いを持っています。
でも、どんなにパーフェクトに見える人であっても「すべての人に好かれていて嫌われることがない」ということはあり得ないんですよね。
今でも世界中で広く信仰されている「イエスキリスト」や「ブッダ」ですら、嫌いだと思う人がいたんですものね。
神の子と呼ばれる人や、悟りを開くほどの人であっても全ての人に好かれていたわけではないのだとしたら、ごくごく普通で…というか、うっかりが基本装備で足りないところがいっぱいの私が、誰からも嫌われないで生きるなんてムリなんですよね。
今でこそ自分を受け入れているので言えますが、
・協調性ゼロ
・マイペースでマイスタイルが大事
・ヌケモレが多い「うっかり国」の住人
・気力はあっても体力があまりない
・人よりテンポが遅い
なのが私なのに、嫌われたくない!!という思いから、この「欠点やダメな要素=個性」を全否定して何とかしようと躍起になっていたんです。
凄く背伸びをして格好つけて、でも心の奥ではハラハラ・ドキドキしていて、分からない話題でも知ったかぶりも良くしました。
自分をいつも犠牲にして人のことを優先し、気疲れして、だけれど何も報われずに泣いていた私。
周りの人と同じように出来ないことに焦り、自分のことを恥ずかしいと否定し、人のことばかり気にかけて親身になってあげるのに、いつの間にか自分の気持ちは分からなくなって、嫌われたくないからいつも流されていました。
でも、嫌われることを怖れて自分を明け渡して他人軸で生きていた時の私は、いつも不安で悲しくて、情けなくて自分をちっぽけに思っていて、すごくすごく苦しかった。
私は自分を犠牲にしても嫌われないように心を配るのに、同じようにしてくれない人の方が多いことに心の中ではイライラして、それでも「いいの、いいの、私なんて!」と笑う自分のことが、本当に悲しかった。
けれど、そう扱われてもしょうがないんですよね。
だって、私が自分のことを何一つ言わないんだから「周りの人は、私が何を思って、何が嫌で、どうしてもらったら嬉しいか」を知れなかったんだから。
私が一番に自分を蔑ろにし、雑に扱っていたんだもの。
この世界は投影(自分の写し鏡)で、自分が自分を扱うやり方で周りの人から扱われるんですものね。
嫌われることを過度に恐れて、大丈夫!と自分を演じていたんだから、周りの人は私を「何をしても大丈夫な人」として扱って当然なんですよね。
今だから思えるけれど、自分をこんなにも雑に、こんなにもひどく扱ってしまってゴメンネ。
嫌われることが怖いことを、不安でいっぱいな私を、分かってあげようとしないで無視してきて、ゴメンネ。
私はずーーっと、笑顔でいながら泣いていたんです。
誰か助けて!私を分かって!!って、いつもいつも、思っていたんです。
嫌われることは誰だって嫌ですし、誰だって怖れることです。
でも、嫌われないようにと自分を押し殺して失くして行った結果、私は本当の意味ではひとりぼっちになっていきました。
嫌われたくないから弱さはさらけ出せないし、嫌われたくないから遠慮して生きるから褒められることもない。
嫌われないようにあちこちに気を配りつつ自分の気配は消し、情けないくらいに人に合わせていました。
食べたいもの一つでも、もしもみんなが食べたいものと違ったら嫌われたり嫌な思いをさせるのでは?と思い、「何食べたい?」という問いかけのたびに正解を探して冷や汗をかいていました。
嫌われたくないから、人といてもいつも気を張って、楽しいこと以上に一人反省会の方がしんどかったなぁ。
嫌われたくないから断れずに行った飲み会で、気を利かせてやったことが「出過ぎたのではないか?」「はしゃぎ過ぎてしまって嫌われたのではないか?」と、帰ってきてから悶々として、週末すべてを落ち込んで過ごし、翌週職場で周りの人が普通に接してくれてようやく肩の荷が下りる…という、とても苦しい生き方をしていました。
なんと生きづらかったんだ!!と、今ならば言えるけれど、自分を思いやれずに自分を嫌っていたあの頃の私は、
嫌われたくないという呪いは生涯解くことができないもので、私はいつも不安なまま生きていくんだろう
と思っていました。
でも、こんな私でも今は「ちゃんと断ったり、ちゃんと自分の好きを表現できる」ようになれました。
今でも嫌われる事には敏感で、怖いという思いはあるけれど、それでも『私の思いは大切なもの』と自分に対して言ってあげて、ちゃんと大事に扱ってあげることができるようになりました。
100%、呪いが溶けなくたっていいんです。
完璧に自由になれなくても、ちょっとずつ自分を呪いから楽にしてあげると、最初は小さな針穴サイズであっても、1㎝、10cm…と、ゆるやかに、でもどんどんと楽になって行けます。
今日、嫌われないようにと神経をすり減らせたあなたがいたら、どうぞほんのちょっとでいいので、あなたに対して「お疲れ様」と声をかけてください。
嫌われたくない=愛されたい、という大きな思いがあるのですから、自分を労う小さな愛を自分にそっとプレゼントしてあげませんか?
嫌われたくないよね、うんうん。
嫌われれるのは誰だって嫌だもんね。
嫌われることを怖れる自分にダメ出しをするよりも、「分かってあげる」ことで、自分の気持ちがほんの少し緩められるならば、それがあなたへの思いやりですから!!
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