死を身近に感じ「生きたい」と心から思った6日間のほんの一コマ
メリー・クリスマス!!
今日はクリスマスイブですね~。
12月は何かと仕事が忙しい時期。
前半戦を駆け抜ければ、中盤から少し楽になる予定でいたのですが、ちょっとだって予想していなかった「病気」の発見で、短期間でものすごくいろんなことを考え、感情が揺れ動いた数日間を過ごしました。
今日はクリスマスとは全く関係がない、私の病気のことについて書きたいと思います。
* * *
お腹の不調から病院を受診した際の話をブログに書きましたが、そこで言われたのが『11㎝を超える骨盤内腫瘍がある』ということ。
腫瘍があると言われた際に感じたのは、「またかぁ」というもので、「悪性疾患」かもしれないとは1㎜も思っていませんでした。
というのも、私は過去に”のう腫”や”筋腫”といった「腫」が付く病気で2度の手術を体験していますが、毎回摘出すれば終わりの良性疾患。
だから「腫瘍」=「悪性の可能性がある」という意識がなかったんです。
なので、超音波検査の後でMRIを撮って来た日は「あー、また手術しなくちゃいけないのかー」ということで気が重くなっていたけれど、『悪い病気では?!』とは全く思っていませんでした。
腫瘍が大きいことから「良性であれ手術が必要」と言われたため、入院中にギンちゃん・仁くんをお願いする必要があるので、実家の両親と妹に腫瘍のことを伝えたところ、周りの方が肩を落として不安になっていたのに対し、私はとてもケロリとしていてビックリされました。
翌日は出社当番日だったので、普通に出社して仕事をして過ごし、家族が不安そうだったから「元気だよ!大丈夫だよ!」と伝えるつもりで夜に実家に向かうことにしていました。
仕事を終えてお風呂に入っている間に、ふと「骨盤内腫瘍って何だろう?」と気になってスマートフォンで検索したら…
骨盤内腫瘍の多くは「子宮腫瘍か卵巣腫瘍」の2種。
私は1年10カ月ほど前に子宮摘出をしているので、可能性があるのは「卵巣腫瘍」一択。
そこで新たに「卵巣腫瘍 10cm」というキーワードで検索してみたら、そこには「卵巣がん」という文字が並んでいました。
・小さいうちは無症状
・大きくなると「腹部膨満感」「下腹部が太った」ようにして発見される
・見つかった時には進行していることが多い
・サイレントキラー(沈黙の暗殺者)
・再発しやすく予後の見通しは悪い
・進行症例の5年生存率は30%と極めて低い
この文字を見つけたとたん、世界がぐにゃりと歪む感じがして心臓の動悸が激しくなり、これまで楽観視していたのがウソのように「悪いものだったらどうしよう?」と不安に取りつかれてしまいました。
過去に摘出した卵巣のう腫(良性疾患)ですら10㎝にはなっていなかったし、大きくなるまで数年経過観察していたよね??ってことは、こんなに突然大きな腫瘍になるってことは悪性の可能性が多いの?!
そういえばMRI検査も良性の時には造影剤を使ってないし…
すでに私は「お腹に11cmを超える腫瘍」が発見されています。
「お腹が太ったような感じ」「お腹にボールのようなしこりを感じる」といった、進行して発見される悪性の卵巣腫瘍の症状が私の状態とピッタリ過ぎて不安が募り、湧き上がる不安をキーワードにして調べれば調べる程、よくない見通しか見つからない…。
あぁ、私、余命宣告を受ける可能性のある病気かもしれないんだ。
もしも「ガン」であって、進行してしまっていたら、5年生存率は30%。
あぁ、私、ガンだったら死ぬかもしれないんだ。
そこではじめて、本当の「死の恐怖」というのを感じました。
これまでに見聞きしたこと、ガンの末期で余命宣告をされた人の書かれた著書、数々の看取りを体験されてきたホスピス医や看護師さんの本、グリーフケア講座で終末期の方の人の側にいた人の声、死に関する様々な文献に触れてきて、
死について「分かったような気」がしていましたが、実際には、何も分かっていなかったと呆然としました。
私はいつだって「見送る側」の視点にいたこと、死を受容するなんてとてもじゃないけれど出来そうにないということに気付かされました。
死ぬかもしれないんだ…と気付いたときに私が叫んだのが
死にたくない!
生きたい!!
という言葉でした。
私はペットグリーフを学んでいるものの、いつかやってくる2魂とのお別れに耐えられるのだろうか?と思っていました。
でも、もしかしたら「2魂を見送れない」のかもしれないなんて…。
私、ギンちゃんや仁くんを見送るまでは、絶対に死にたくない。
そしてもう一つ「命の期限」を考えながら生きる日々が怖い。
命は必ずいつか「死」を迎えるのは知っているけれど、それを予測できないから生きていられるんだな…。
もしあと半年というように「終わりの予測」があったら、怖くて不安でたまらなくて、とてもじゃないけれど死を受容することなんてできない、って。
「死」に向かうことをはっきり自覚しながら生きぬいた人たちは、なんて強いんだろう。
どうやったら「死」を受容できるのだろう??
生きていたい。
何かを成し遂げなくても、お金持じゃなくても、平凡でもいい。
死を身近に感じず、死を予期できないくらい遠くに感じて生きている「何もない今日」がどれだけ幸せなのか!!
腫瘍があると言われた時には少しも想像していなかった、悪性腫瘍の可能性を感じたときから一転して、死の恐怖に取りつかれてしまい、眠れない・食べれない・不安でいっぱいで居ても立っても居られない状態になりました。
あまりに強い不安から、人生で初めて激しい動悸と過呼吸のような状態になり「パニック発作」を起こし、とても一人では居られずに、ギンちゃんと仁くんを連れて実家に身を寄せることにしました。
* * *
結果が出るまでの時間は、「良性か悪性かが分からないこと」でとにかく不安でした。
分かってしまうことが怖かったし、期待してもしも悪性だったら立ち直れない…と、悪い予測をすると、病気の治療や再発への不安、死が側にあることの恐ろしさに震えて動悸がして居ても立っても居られない状態になりました。
もしも、もう治療すらできないくらい進行していたら?
あちこちに転移していて、予後の予測が悪かったら?
手術の際には、いろんな場所を切り取らなくてはいけないよね…
抗がん剤も必要でしょ?耐えられるのだろうか?
治療を続ける中で「再発」したら、その時の絶望は今以上だろう…
同じようなことをグルグル考えて振り出しに戻る…ということしかできず、それでも少しだけ前向きに「5年生存率が30~40%と低いとしても、その30~40%になれれば大丈夫だから!」思えた瞬間があったかと思えば、卵巣がんのタイプによっては希望が持てないんだった…とうなだれて、ほとほと疲弊していきました。
病気への不安でいっぱい過ぎてどうにもならず、次に検索してみたのが「余命 受容の仕方」というものでした。
私の腫瘍が「悪性で進行している」と言われた場合、見通しは明るくありません。
すでに10㎝を超えるサイズの大きな腫瘍がお腹の中にありますから、逃げることはできません。
先はあくまでも「予測値」とはいえ、現実を受け入れられなければ、限りある残された時間を嘆き悲しみと不安な状態で生きることになります。
どうやったら、この理不尽でどうにもならない「死の予測」を受け入れて、生きていくことができるのだろうか?
そう言えば、過去に読んだターミナル期の本の中では、死を受容できずに亡くなる方もたくさんいると書いてあったっけ…。
残された時間、ずっとこんな苦しい気持ちで生きるなんて…。
縋るような気持ちで、自分の病気を受け入れてターミナル期を過ごす方法はないか?と探したところ、終末医療に携わる人たちの言葉の中に、次のようなものがありました。
余命宣告を受ける・末期のガンだと宣告された人はしばし大きな不安で取り乱し、眠れず食べれずの日々を過ごすのが普通のこと。
それでも多くの人は2週間程度で少し落ち着いて現実と折り合いをつけ始めることができる。
あくまでも2週間くらいで「今の状態からは少しだけでも落ち着く」ことができる。
「受け入れる」のではないけれど、居ても立っても居られない不安もいずれ落ち着くって、でも…
本当なの?!
* * *
不安でどうにもならない状態になった私は、どうやって現実を受け入れたらいいのだろうか?と膝を抱えて震え続けていました。
その中で、過去に「乳がん」と診断され、幸いな事に早期発見・手術で病巣を取り切ることができ、3年ほど再発なく過ごせている母の知り合いが訪ねてきてくれました。
乳がんが発覚した当時の自分も、同じように取り乱したし不安で眠れず食べれずになった…と寄り添ってもらい、当時の自分が重なるといって一緒に泣いてくれました。
しばらくはこの気持ちはどうしようもないものだということを肯定してもらい、それだけで少しだけホッとしたのを覚えています。
病気のタイプも、ガンの種類も、個々の健康状態も違うものだから、必ずしも同じような見通しが立つものではないと分かっていても、同じような苦しみや葛藤を乗り越えて病気と共存することができている人がいて、「大丈夫じゃないけれど、大丈夫だよ」と言ってもらえることが、こんなにも力強いものだということも、この時の大きな発見でした。
グリーフケアやカウンセリングを学ぶ中で、何かしらの「解決策」「助けになるものごと」を届けられるようになりたいと、どこかで思っていた自分がいました。
何もできない・何も与えられなくていいし、側にいて「分かろうとすること」だけでいい
ということは、ぼんやりと「分かった気」になっていましたが、自分が大きな不安と悲嘆の中に置かれたときに感じたことは
この悲しみや恐怖を「分かる」なんて他の人にはできないものだから、ただ側にいて「分かろうとしてくれる」ことが嬉しい
と初めて腑に落ちて理解できました。
だって、自分ですら「現実を受け入れることができない」んです。
それを第三者が「分かります」「こうしたらいいですよ」って言えないし、死を受け入れるなんて到底無理なことだから、何かできることなんてないんだ、って。
そして、分かったようなことを言われたら逆に傷つきますし、アドバイスなんて欲しくないし、解決策なんてない問題があるのに、解決しようとされたら自分が置いてけぼりになっちゃうんだ、って。
死を「受容」することって、きっとできない。
死を自分なりに「割り切っていく」「受け入れようとする」ことが、精一杯なんだろうな、って。
うーん、適切な言葉が出てこないのだけれど、受け入れるのではなく折り合いをつけていく…そんなようなものなのかもしれません。
それと同時に、大きな悲嘆(グリーフ)の中にあるときには『疎外感』を感じるということも、自分が体験して初めてクッキリと理解することができました。
疎外感とは、私とその他の世界は哀しみを境に切り離されたように感じることや、誰も私の気持ちは分からない、同じような体験をしていても私とは違うんだから…とひとりぼっちで立ち尽くすような感覚のこと。
乳がんと共に生きている方のお話を聞かせてもらい、そこで話をしている間は少しだけ明るい気持ちになれたのですが、同時に感じたのが
あぁ、この人は「ガンであってもタチのいいガンで良かったなぁ。早期での発見だったなんて、羨ましいなぁ」という気持ちでした。
私の腫瘍はかなり大きい = 進行しているわけだし、卵巣がんの予後は全く明るくないんだもん。
同じように「死」を身近に感じる病気であっても、私とは違っていて、私のこの状況や気持ちは分からない!!と、
私だけか世界から切り離されたような、文字通りの「疎外感」を感じていました。
こんな気持ちになるなんて、思ってもいませんでした。
壊れた機械のように、何度も同じようなことを母や妹に呟いて「不安だよ」「怖いよ」「悪性じゃないと思いたいけれど、もし悪性だったら私はおかしくなるかもしれない…」と、結果が分からないことでグルグルし続けました。
* * *
長くなってしまったので、この期間に私がやったこと、助けてくれた人たちのこと、病気への向き合い方などはまた改めて書こうと思いますが、嘆き悲しみ、食べれず眠れず不安でいっぱいな中で死を意識し続けた日々を4日ほど過ごした後は、結果を前にして「どうあっても受け入れようと腹を括る」気持ちが芽生えました。
強引な前向き思考だったのだろうと思いますが、それでも「もう腫瘍はあるのだから、この現実は変えられない。ならば結果に応じてできることをしていこう」と腹を括って検査結果を聞きに行きました。
前を向くためにやったことのひとつが
インターネットで病気のことを調べない
ということでした。
実は、これ、メチャクチャ大事なことでした。
不安を解消したくて調べたくなるのですが、調べると派生して不安な言葉ばかりが集まってきました。
治療についての不安、予後、余命、進行している際の身体の変化、早期発見できないことへの後悔…
明るい見通しなんて全くできなくなりますし、
不安な時に調べる=不安が強くなる情報を引き寄せる(脳が勝手に不安な情報に反応して集める)
ので、どこまでも不安の沼に引き込まれて行くんですよね。
不安だから、何度も何度もスマートフォンで検索したくなりました。
でも、その度に手を放して自分をさすってあげながら自分に声掛けをして踏みとどまりました。
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今探しても、結果が出ていないんだから何もできないよね?
勝手に不安になって結果を待つのも、これ以上不安な情報を自分に与えずに過ごすのも、私が『今』選べることだよね?
「今」私は生きているし、「今」私を助ける行動を選べるのは、私だからね!
もう勝手に不安を取り込むのは止めようね。
結果が出てから、出来ることをしていけばいいし、それしかできないんだから。
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インターネットで手軽にいろんな情報を「すぐ」に探せるのは、とても便利です。
そして、情報はあふれるほどにありますが、その中にはいとも容易に気持ちをネガティブに引っ張っていくものが大量にあります。
不安を煽るものや、明るくない見通しのもの、実体験のない誰かの受け売りや情報…
それがさも「事実」のように書かれていることもあります。
中には不正確な情報や怪しい内容もあるけれど、不安や恐怖に支配されているときには「判断力」はないので、いとも簡単に不要な情報に振り回されてしまいます。
不安な時ほど、溢れている情報の中でも「心を惑わす」ものにガチッとはまってしまいます。
もう十分に不安な所に、新しい不安の素を「取り込まないようにしてあげる」ということも、今の自分にしてあげられる優しい行動ですもんね!
検査結果を聞きに行くのが「月曜日の夕方」だったのですが、土曜日からは意識してインターネットから離れ、不安でついつい調べたくなる時は
全然関係ない楽しい話題。
読みかけの面白い本や、好きな人の明るくなる発信。
気持ちがホッとする話。
を「あえて」見るようにして、病気の話から離れて過ごしたことで、グラグラしてブレそうになる度に「腹を括り直す」ことで当日を迎えられました。
不安になるなと言われても、考えずにはいられませんでした。
どんな気持ちもなくすことはできなくて共存する日々を過ごすしかなかったけれど、不安を煽ったり募らせるものから離れることは、私にとってはとても大事なことでした。
不安だからこそ「何とか救いになる希望を見つけたく」なるけれど、不安が不安を引き寄せるんだということも今回の体験で気付けたことは『不安の中での拾い物のひとつ』でした。
なんだかものすごく尻切れトンボで中途半端な感じですが、気分が不安で支配されていた数日の「一コマ」を書かせていただきました。
この数日間に得たものは本当にたくさんあり、短時間でこんなにもいろんな気付きや体験ができるんだ…というものばかりでしたので、また少しずつ書かせていただこうと思います。
クリスマスイブの今日、私はニッコリしながら不安を和らげて過ごせています。
身体も少しの不調はありつつも元気です!!
ではでは。
みなさんが笑顔の夜を過ごせるクリスマスの魔法が降り注ぎますように。