大きく立派であっても、小さいままで何も実を結ばなくても、愛される存在に変わりはない ~エバーフレッシュの成長を見て思ったこと~
梅雨入りしたばかりですが、なんともモワーンとしたネットリ系の暑さですね~。
湿度と暑さのダブルパンチで、熱中症になる方が多発しているというニュースを見ましたが、いやほんと、ただの暑さじゃなくて「しつこくて重たい、執着系の暑さ」って感じですもんね。
まだ6月ではありますが、我が家では仁くんがグッタリしてしまうので、昨日から24時間エアコン稼働(+扇風機)で過ごしています。
設定温度は「28度」とそこまで冷やしてはいないのですが、エアコンをつけていると除湿もしてくれるのかカラッとしますね!
エアコンを使わずに「網戸の風」の時には、はぁはぁ…とダルそうにしているのに対し、エアコンをつけると気持ちよさそうにスヤスヤ寝ている姿を見ると、仁くんはすごく敏感に影響を受けているんだなぁ~と鈍感な自分との違いにビックリさせられています。
冒頭のギンちゃんを置き去りにしていますが(いつものことです)、昨年秋、エバーフレッシュの枝を水差ししていたら発根し、それを鉢上にした話をしたのを覚えている方はいらっしゃるでしょうか?
いいんですよ、覚えていなくて。
私も、自分で言っておきながら「冬だったっけ?秋だったっけ?」と曖昧でしたから。
なので、その時の記事を貼っておきますね!!
記事によると、昨年のGW頃に「伸びすぎた枝葉の剪定」をした際に、節がない短く細い枝を水差しにしました。
水差しにしたまま無音の時間が過ぎていましたが、7月の終わり頃に発根し始めました。
とはいえ、そのままでは頼りないくらい小さな根で、土に植えても水を吸い上げられないだろうと思い、そのまま水差しで根が増えるのを待ち、根が多少増えた8月末のタイミングで小さな鉢に植え付けて様子を見ていました。
つまようじ程の太さの、小さな小さな枝。
土に植えてから、これまた小さな芽を広げようとしているのを見つけた時に、すごくかわいくて感動したのを覚えています。
こんなに小さな枝だったのが…
ギンちゃんと比べても「大きくなったなぁ」と分かるくらい、どんどん枝葉を伸ばして大きく育ってくれました。
そしてそして、葉の間にポコンと小さな「つぼみ」があるんです!!
あんなに小さかった枝が、しっかり根を伸ばすことができて、冬を越して春が来て、健やかに成長をしやすい季節に枝を伸ばしていたと思ったら、花まで咲かそうとするほどに逞しくなっていました。
えーっと、蕾のことをお見せしたいと思うのですが、実はですね…
エバーフレッシュの花のつぼみは、「集合恐怖」のある人が見たら鳥肌が立っちゃうタイプの「規則正しく細かいブツブツ系」なのでご注意ください!!
私は毎日、水やりの際に目にしては「ひえーーーっ」と鳥肌を立てながら、ゾワゾワしつつも気になてチェケラしています。
ね、ゾワるでしょ?!
蕾ができてから1週間で、ふっくらと大きくなりましたが、成長している間ずっと「集合恐怖」を感じさせながら大きくなっていくという、なんとも嬉しゾワゾワな日々です。
うううーーーっ。
鳥肌立っちゃう!!!
ゾワゾワしつつ、両二の腕を掻きむしりながらも、成長を見るのが楽しいなんて不思議な感じがします。えへへ。
本当に成長することができるのだろうか?と思う程に、小さな小さな「頼りない枝」だったのに、1年も待たずにこんなにもしっかりと大きく育ち、花までつけようとしている姿に、愛おしさと喜びと「小さな幸せ」を感じています。
* * *
細くて頼りない小さな枝を土に植えた後、ものすごく小さな芽を見つけた時に、愛おしさと嬉しさが込み上げました。
あの時、ブログに聖書の言葉を引用しました。
天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる。
(マタイによる福音書13:31-32 [ 口語訳 ] )
小さなからしの種粒が成長すると、その枝に鳥を宿せるほどの立派な大木になる。
何かを初めるときには、からしの種粒ほどに「ささやか」で「控え目」で「小さな」一歩でしょう。
私は自分を好きになりたい、受容してあげられるようになりたいと、何度も挑戦しては途中で「うまくいかなかった…」と自己嫌悪を募らせることばかりを続けてきました。
失敗ではない。
うまくいかない1万通りの方法を発見したのだ!
by エジソン
発明家のエジソンの言葉の通りで、ただ単に「やり方が合わなかった」「私にはフィットしないものだった」「まだ浸透する前に諦めていただけ」なのに、うまくいかないやり方だった『だけ』なのに、それを使って自分イジメをしちゃうくらい、自分に厳しかったんですよね。(遠い目)
正直、自分と仲直りをし、自分を受け入れられるようになりたいと思ってやった事柄は、どれもとてもささやかで地味で、それこそ「からしの種粒」のように小さな事柄でした。
さらに、その小さな種を蒔いたとしても、まだ私という土壌は頑なになっていて種が根を張るのが難しいくらいカチカチで、私のためにしてあげられる小さなことを積み重ねつつも
こんなことして、何になるんだろう?
こんなことしてて、ちゃんと私は自分を好きになれるんだろうか?
と思うことも幾度もありました。
あまりにささやかで小さいことは、成長を感じようにも分かりづらいんですものね。
毎日1㎜ずつ前に進めば、1年で365㎜前に進みます。
小学校の時に持っていた「30㎝ものさし1本分と少し」の前進です。
でもまだ、そんなに前に進んだようには見えませんよね。
けれど、3年経つと前進は1mを超えます。
たった1㎜とはいえ、小さな小さな前進であっても、ある時振り返ると「随分前に来れたなぁ」と気付けます。
通過点である「1年目」には、ちゃんと36㎝も進んでいるにも関わらず、景色が変わる感じはあまりないため、進んでいることが分かりにくいままです。
自分を受け入れようとすることも、自分に優しくすることも、ちゃんと変化していたとしても、手応えを感じるまでの『過程』にいるときには、分かりにくいんですよね。
エジソンの言葉では「合わなかった方法を見つけた」とも言えますが、合わなかった方法であっても、からしの種粒を蒔いた土壌を『耕した』ことには変わりありません。
あれもダメだった。
これもダメだった。
こっちもうまくいかないみたい。
そんな風に、何をしてもうまくやれないように感じていたとしても、自分を愛そう・自分に優しくしよう・自分を慈しもうとして「挑戦した」すべての行動は、
自分という土壌を「せっせと耕していること」に他なりません。
土を耕して土壌を作っていても、まだ何も植えられていないのですから芽もでません。
手応えなんて感じません。
でも、耕すことをしない「硬い状態の土」であれば、どんなに種を蒔いても値を伸ばすことができません。
無駄なんかじゃないんです。
合わないやり方だった…と思う度に、自分という大事な土壌を柔らかくしたんです。
小さなエバーフレッシュの枝は、GWの頃から7月を過ぎるまで、まったく根を生やす気配はありませんでした。
その後も、成長はゆるやかで、根が少し増えるまでにも2カ月近くもかかりました。
土に植えて、小さな芽が出たことが嬉しかったけれど、その後はまた「シーン」と沈黙するかのように成長を止め、そうかと思えば数か月後にはまた芽を増やして…と自分の速度で成長していきました。
そして突然、ムクムクと成長のスイッチが入り、あれよあれよと枝葉や脇枝をつけるようになったと思ったら、小さなつぼみをつけました。
あんなに小さな枝だったものが、もうすっかり存在感のある「小さな木」になりました。
成長を見るのは喜ばしいですし、蕾を見つけたときには「わあっ!」と思わず笑顔になり、その日は一日中ふくふくと嬉しさに包まれてご機嫌に過ごせました。
成長していく姿を見ていると楽しいですし、愛着だって湧いていきます。
成長してくれたら、嬉しい。
成長するのを見るのは、楽しい。
成長を見せてくれる存在は、愛おしい。
そう思うのは普通のことだと思いますが、でもね、もしも蕾をつけていなかったとしても、こんなに大きくなれなかったとしても、
変わらずに、小さなままでも根を生やして、自分の速度で成長しようとするその姿のままで、愛らしいと思えるものです。
成長しなくても、大丈夫。
成長がゆるやかでも、愛らしい。
成長が分かりにくくても、そのままでいていい。
そう思って、ハタと思ったんです。
これは「神様が私を見る目線」と通じるものがあるじゃないか、って。
何かを成し遂げられる力を持っている人が、大きな成果を上げるのをみたら、きっと神様はその成果を喜ばれるでしょう。
その人のことを誇りに思い、喜ばしく祝福されるでしょう。
でも、神様は「小さくて弱い存在」のままでいる私でいたとしても、不器用で道に迷う私のことも「ただ、あなたがあなたであるだけでいい」と目を細めて見てくれているのではないか、って。
だって神様は、無償の愛の存在ですもんね!!
もがきながらも必死な私を見て、きっと「頑張れ!大丈夫!」って暖かく見守ってくれているはずですものね。
ダメなままで、小さくて細くて、マイペースなままで愛されていいんだった。
このままの「欠点だらけの今の私」で、愛されていてよかったんだった。
鳥肌を立てながら、蕾の成長を見守る日々の中で、大きくなってもならなくても「愛する気持ち」は変わらないんだと気付いた、そんなオマミーヌのつぶやきでした。
ではでは、おやすみなさーーい。さーーい。さーーい。 ← 末尾のひとりやまびこ