自分にダメ出しするのは、それだけ傷付いた過去があるから ~自分に「大丈夫だよ!」って言ってあげよう~
私が仕事をするのに使っているリビングのこたつテーブルの後ろには、仁くんがベットとしても使える多機能型のギンちゃんの大型爪とぎ(別名:ソファー)があります。
今日も私が仕事に集中している間、それぞれが自由に好きな場所でお昼寝をしていたのですが、仁くんはソファーのど真ん中、私の丁度真後ろになる場所で半目を開けながら爆睡していました。(カメラを向けたら目を開けてしまいました)
ちなみに…
かわいいの塊の仁くんは、半目で寝ることが多々あり、すごく変顔になるのに愛おしいので、何をしてもかわいいことに悶絶させられます。
えぇ、親バカです。はいーーー。(← やす子さんを憑依させてお読みください)
仕事が一区切りの所で、お茶を飲もうと思って席を立ったついでに振り返ったら、仁くんの寝姿があまりにかわいくて激写。
くはーーーーっ。
なんてかわいいことしてるのぉぉぉぉ。
かわいいことでは仁くんにも負けないポテンシャルを持つ、ミッフィーちゃん。
そんなかわいいミッフィーちゃんクッションを、かわいい仁くんが、かわいい足技で挟んでいるんDEATH!!
この数行に「かわいい」って単語が何回でてきたでしょう? ← 突然のブッコミクイズ
果たしてこのポージングが寝やすい姿勢なのかは分からないけれど、でも半目で爆睡していたところを見ると、きっと仁くんにとっては心地よかったんだろうなぁ。
長いこと一緒に暮らしていて、変わり映えのないような毎日を送っているはずだけれど、ギンちゃん・仁くんは、毎日私に新しい笑顔と愛おしい気持ちでキュンとする喜びを届けてくれています。
ありがとう、家族になってくれて。
ありがとう、側にいてくれて。
* * *
今日は、サラリーマンの仕事でコラムを書く作業をしていたのですが、そこで改めて「自己肯定感」を育むのを邪魔する『自分へのダメ出し』について考える時間がありました。
自己攻撃にもなる「私なんて…」「はぁ、ダメだ」という思い。
過去に私はこの「自分はダメなんだ」という沼にズブズブに浸かっていて、自分をとても厳しく監視し、小さなことでもダメ出しをして自己肯定感をへし折っていました。
今の私は、ずいぶんと「自己肯定感」も太くなり、以前よりずっと自分へのダメ出しが減りましたが、それは自分を肯定する力が強くなった…という以上に
自分を評価する基準がズブズブにゆるくなった
ということが大きいような気がしています。
自分をダメ出ししなくなるほどに、私が成長した訳でも、立派になった・やれることが増えた訳ではありません。
私は多分、自己肯定感が地中にめりこんでいたときと同じくらい「やれていないこと」「不得意なこと」「うっかりしちゃっていること」があると思います。
いや…
もしかしたら…
自己否定てんこ盛りだったあの頃より、もっとできないことや、苦手なことが出来なくなっているかもしれません。
私は完璧主義の傾向が強かったので、ちょっとした失敗があると、努力したことも全て台無しにする勢いで自分にダメ出しをしていました。
99点だったとしても、足りない1点のことで自分を詰り、さらには「99点までの過程が良くなかった」などと難癖までつけて自分を否定していました。
それが今では、赤点レベルでも笑ってあげられるようになりました。
ウケル!
全然できてないじゃーーん。
それでも頑張ったとか、やっぱりウケル!!
なんて言いながら。
じゃぁ、完璧主義がなくなったのかというと、私の心のルールブック(観念)には、ちゃんと残っています。
だから自分の気持ちが落ちているときや、体調が良くないときなんかには、赤点レベルで笑えずにチクリと胸が痛む時もあります。
おちこんだりもしたけれど、私は元気です。 ← By 魔女の宅急便・キキ
こんな感じで、また不安定さの波が落ち着いたり、体調がよくなれば「赤点だって、ウケル」と言えるようになりますが、時に観念は顔を出して、私に「小声でダメ出し」してきたり、知らずに反応して自分責めをしてしまうこともあります。
観念や自分の中の基準は、ゆるい方がずっと生きやすいけれど、自分の中のルールブックに「こうあるべき」というのを書き込むことをしたのは
深く傷付いた自分が、また傷付くことがないように守ってあげたい
という思いがあるからなんですもんね。
ルールは痛みや悲しみ、大きな傷や恥ずかしい思いを『もう二度としなくていいむように』って自分を守るために作るものだから。
私が完璧主義になって行ったのは、色んな傷が積み重なった結果なのですが、その一つに『上手にできれば怒られない』『私がちゃんとやれれば周りの人が嫌な思いをしない』という過去の悲しい経験があったからです。
この他にも、私にはたくさんの「観念」があります。
子供時代の宗教的な教えもあり、平和主義で自分を犠牲にしても周りの人を愛するべきだと思っていました。
神様の教えに心から従えず、だから私は罪深く「愛されるに足ることのない人間」だと、自分を牢屋に入れて幸せになることを禁じていました。
誰かの役に立つから「愛して欲しい」という取引もたくさんしましたし、自分の意見には価値がないのだから自分を押し殺し、他人軸になるように生きてきました。
お母さんや友達に笑って欲しくて、無理してポジティブに振る舞い、ピエロのようなこともしていました。
このままの私では愛されない。
でも、愛して欲しい。
分かって欲しいし、私のことを見て欲しい。
いいんだよ、大丈夫だよ、って言って欲しい。
もっともっと、私を受け入れて欲しくて、ダメな自分・足りない自分を直さなくちゃいけないと、自分を縛るルールが増えていきました。
もっと頑張らないと愛されない。
がんばらない私には価値がない。
価値のない私が愛することなんて迷惑だろう。
愛したいから、もっと素敵な私になりたい。
自分を監視し、ダメ出しを繰り返すうちに、どんどん自分を嫌いになって自己肯定感が削れていったのに、ダメ出しするその奥には
愛されたい、愛したい。
分かって欲しい、認めて欲しい。
という叫びと、うまくやれなくて恥ずかしい思いや悲しい気持ちをたくさん抱えていた自分がいました。
ダメ出しなんて、本当は誰もしたくないですよね。
ダメ出しせずに愛されていいのに、そうするのが怖いくらい、傷付いた自分がいるんです。
自分を受け入れ、自分に優しくしてあげて、どんな自分でもいいんだよ!と言えるようになろう!!とは言いますが、私自身が自分にそれを実践して効果を感じられるまでには、メチャクチャ時間がかかりました。(遠回りが得意なもので…)
分かっているんです。
ダメ出しなんかしてもいいことないって。
でも、しちゃうんですよね。
無意識のうちに、息するようにダメ出ししちゃうんですもんね。
そんな自分に気づくたびに、ダメ出しはしなくてもいいんだよ!と繰り返し、繰り返し、伝え続けていくことが大事なのだけれど、人間だもの。
気持ちに波だってあるから、その時々で「分かった!」と素直に聞ける日もあれば、「またダメ出しして、なんで私は変われないんだ…」と自分責めを強めちゃう日だってあります。
自分ルールが厳しくて、自分責めや自己攻撃が強いならば、ダメ出しをしている自分を一度ギューーーッとそのまま抱きしめるイメージをしてみてください。
こんなに鬼の形相で自分を律してしまうほど、傷付いてきたんだよね。
こんなにも自分責めして、もっと頑張ってでも、愛されたいし分かって欲しいんだよね。
つらい思いや、痛みを抱えながら、自分をこんなにも頑張らせているなんて、私って本当に健気で素敵だよね。
こんなに素敵な私を、虐めちゃったらかわいそうだよね。
傷が痛いから、頑張るよね。頑張っちゃうよね。
私を責めるのは、私が愛される人になれるようにって、私を守ってあげたい一心なんだよね。
私を助けたいって思ってくれて、ありがとう。
でも、このルールが私を傷付けちゃうみたいだから、少しずつ手放して行こうね。
大丈夫、私の傷ごと愛されていいから。
大丈夫、大丈夫じゃなくても、大丈夫だから。
ルールを持つしかなかった、ダメ出ししちゃう自分のことを「分かってあげて」「ありがとう」って伝えて、傷付いたままでも愛されていいんだよ!って、呪いを解くために何度だって自分に触れて、言葉を届けてあげてください。
体に触れることで、愛情ホルモンを分泌させつつ、言葉はアファメーションのように繰り返し届けることで、時間はかかってもゆっくりゆっくり、呪いを解いていければいいですものね。
アファメーションのような声がけは、すぐには効果はありません。
それはまるで、種を植えるようなものです。
植物は、種を蒔かなければ芽が決して出ませんが、芽が出るまでには数か月うんともすんとも言わないことなんてザラですよね。
優しい声掛けも同じように、かたく閉じた心に浸透していくまでにはやっぱりちょっぴり時間が必要です。
ダメ出ししちゃう自分を「またダメ出ししてる」と、さらなるダメ出しで追い打ちをかけてしまうのではなく
ダメ出ししちゃうのは、それだけ過去に痛い思いや悲しみ、恥ずかしい体験があったんだもんね。
しょうがないよね。私を守ろうとしてくれてるんだもんね。
こんなに苦しいやり方で、こんなにも健気に。
ありがとう、私。
って、痛みに柔らかく薬を塗って絆創膏を貼るように、優しい感謝の言葉を届け続けてあげてください。
観念がいっぱい、それだけ傷付いたことがいっぱい、だから。
あなたが自分責めが多いならば、それだけいーーーっぱい耐えて、頑張ってきた証拠ですものね。
自分責めをしちゃう自分にも、ほんのちょっとだけ慈しみの眼差しを向けてあげられますように。