「当たり前を満たす」ことって愛情だとカウントし忘れがちだけれど、目を向けてみるといっぱい「証」があるのかもしれないよね
今日は父の日ですね。
母の日が「5月の第二日曜日」なので、父の日は「6月の第二日曜日」だと勘違いしていたのですが、父の日は『第三日曜日』なんですよね。えへへ。
GWに東京の妹夫妻が帰省した際に、全員揃っているタイミングで「少し早い父の日・母の日」のプレゼント…というか、両親の希望で『現金』を渡しているので、特段何かをする予定はなかったのですが、いいお天気だし…という理由で妹と実家の近くのお寿司屋さんに昼ビールしつつお寿司を食べることにしたので、ギンちゃん・仁くんも連れだって実家に泊まりに行きました。
いいお天気でジワジワと気温も上がっていたので、お昼からキンキンに冷えた生ビールが最高に幸せ♡
たまには昼から飲んでみるのもいいですね~~。
飲み始めるとそんなにたくさんはお寿司(お米)が食べられなくなるので、ネタ選びも真剣です!
この日の最初は「肉厚の〆鯖」でした。
子どもの頃は〆鯖って苦手だったのですが、大人になって美味しさが分かるようになった一皿DEATH。
このほかに、真アジやタコ、トロたたきの軍艦、イカ納豆にハマチにサーモン!と、お腹いっぱいお寿司を食べました。幸せ~~。
へへへ。
お昼って夜よりも早くご機嫌に酔う気がします。
この日は「父の日特別フェア」と題して、生ビールが1杯300円ちょいで飲めたので、そのリーズナブルさについつい調子に乗り、ご機嫌に4杯も飲んで「いい塩梅に酔っ払いオマミーヌ」が爆誕しました。
ほろ酔いでお店を後にし、家に帰る前に通り道にあるスーパーで「晩ご飯用のお刺身やオードブル」などを買うことにしました。
来週、私が東京に行っている間、ギンちゃんと仁くんをお泊りさせてくれて面倒を見てくれることへの感謝の前払いと、父の日のありがとうを込めて私がお財布係になりましたが、気持ちよくほろ酔いのため、お財布のひもがユルユルでした。あはは。
お刺身は少し大きめの盛り合わせを買ったのですが、中トロや厚切りの鯛にサーモンなど、ギンちゃんも大喜びのラインナップ。
私はそんなに貝は好まないのですが、父は大の貝好きで、お刺身の中にバイ貝が入っていたのをえらく喜んでくれました。
何かすごく大きなサプライズだったり、特別なイベントをしたわけではないけれど、『お家ご飯』という日常の一コマの中で、ほんのちょっとだけリッチかつ手軽なお祝いをするために、妹と一緒にスーパーでカートを引きながら「これ好きだよね?」「これ喜ぶかな?」を選ぶ時間は、ほろ酔いもあってか
大切な人を思うから、一生懸命選ぶんだよなぁ~
と、キンキンに冷えたスーパーマーケットの中で、自分の内側にある心がホカホカするのを感じました。
* * *
ほんのちょっぴりの贅沢ではありましたが、それを喜んでくれる人がいること。
食卓を囲むみんなが笑顔で「おいしいね」と言える時間があること。
一人と2魂とで過ごす「私の城」での時間も愛おしくて幸せな時間だけれど、こうやって時々、実家で家族と過ごす時間も愛すべき大切な時間。
なんでもない、日常の延長にある晩ごはんの時間だったのに、買ってきたものを喜んでもらえたことで「あっ!」と思ったことがありました。
私もそうですが、親から愛されたい、親から「自分が欲しい愛情をかけて欲しい」と思い、それをもらえなかった…と拗ねてしまう事があります。
どうして親から愛されたいか、それは「私が親を思いっきり愛しているから」なんですよね。
どうでもいい存在に対しては「愛してよ!」って思いませんもんね。
愛されなかった!と親の愛を欲しがるのは、それだけ自分が親を愛しているから。
私たちはネガティブな物事にフォーカスしやすい性質を持っているので、ついつい「悲しい出来事」「思うように愛情をもらえなかったように見える出来事」「叱られたこと」「誰かと比較されたこと」などなど、自分の中で『私は愛されない存在』だと思うような事柄を記憶として大事に持ち続けます。
ネガティブなことって精神的にも肉体的にも「痛くて衝撃が大きい」こともあるので、記憶に残りやすかったりもしますし…ね。
で、私たちの思考は不思議なことに「都合よく記憶を操作する」部分があるので、愛されていたことを忘れてしまっていたり、見えなくなってしまうように、愛されていなかった自分のことを鮮明に記憶し続けようとして繰り返しなぞります。
感情って良くも悪くも大きな力があるから、感じたことに引っ張られてしまい、本質を見失ったり「盲点」のように見えなくなってしまいます。
でも昨日、スーパーで「日常の一コマ」である、晩ご飯のお惣菜類を選ぶという事をしていた時に、一生懸命選ぶのは「喜ばせたい」という愛情があるからだ、ってほろ酔いでフワフワした体で感じました。
あぁ、これと同じことを、何年も何十年もお父さんとお母さんは私に与えてきてくれていたし、今でもそうなんだよな、って。
欲しい形の愛の言葉や愛情表現、愛されていると「目に見えて分かる形」を与えてもらっていない=私は愛されていない、価値のない存在だと自己肯定感をへし曲げるようにして生きてきたけれど、見えていないだけで、気付けないくらい当たり前に存分に、愛を与えてきてもらっていたんです。
衣食住を満たしてくれた、それって「愛」があるからなんですよね。
衣食住って当たり前すぎて意識できないけれど、愛がなければそれを満たしてあげようなんて思いません。
体のことを気遣ってメニューを考えたり、その時々に応じた衣類や寝具を準備してくれて、いってきますやただいまが言える「安心できる住まい」を満たしてくれたことは、当たり前だと思い込んでいて見えなくなっていただけで、愛があることに他ならないんですよね。
衣食住や成長を見守って育ててくれた事、それを「親の与える愛」に入れ忘れていたんです。
当たり前は実はとびきりに幸せで、でも、幸せで特別なことだということには気付けないくらい贅沢な状態です。
風邪で高熱が出た時に健康のありがたみが分かるように、健康が当たり前だと思っている時には分からないのと同じです。
家族を養うために嫌なことがあっても仕事を続けてくれたこと、時にスペシャルなこととして旅行や外食に連れて行ってくれたり、誕生日や記念日にプレゼントを買ってくれたのは、お父さんが「当たり前に」私や家族を愛してくれていたから。
掃除や洗濯で清潔を保ち、毎日の食事を作ってくれて、細やかに身の回りを整え、話を聞いてくれたり学校行事に参加してくれて、嫌味にカチンときて口喧嘩した日でもちゃんと食事を用意してくれたのは、母が大きな愛を私や家族に向けてくれていたから。
叱られた、きょうだいとの間で比較された、ガマンさせられた、バカにするような言葉や態度をされた…残念だった所は強烈だからこそ、そういう所ばかりが記憶にインプットされていて、当たり前すぎる大きな愛には気付けないんですよね。
自分が望むような、分かりやすい形で与えられなかったから「愛された記憶がない」なんて言っちゃうけれど、でも実際に今こうやって大人になって生きているのは、お父さんとお母さんが与えてくれた『無償の愛』があったから、育ててくれたから今があるんです。
大人になれたって、愛されてきたってことでもあるのかもしれませんね。
自分が望むような愛や、欲しい形の愛がではなかったとしても。
もちろん、欲しい形での愛をもらいたかったし、衣食住を満たしてくれたから「愛されてる♡うふ♡」って有頂天になることはありませんが、でも「衣食住という形で両親なりの愛を示してくれていたんだ」と愛情表現の1つとカウントしてあげられたらいいですよね。
ギンちゃんや仁くんの「(衣)食住や健康」を満たすのは、私が2魂を愛しているから。
とはいえ、極上のお世話スタイルかと言えば出来ていないことだってきっとたくさんあるけれど、私はギンちゃんと仁くんを『世界一愛している』って胸を張って言えます。
見返りなんて何も求めていない、そこにいてくれることや成長と健康を願う愛がある。
それもちゃんと『私を愛してくれた一つの愛の形』と受け取れたら、やっぱり心がホクホクしますね。
毎日の何でもない時間にも、きっと見えないだけで「愛されている」がいっぱいあるんだろうなぁ。
それにこの先、どれくらい私は気付いていけるのか??
うふふ、少しだけでも貪欲に、少しだけでも多く、それに気付ける私になりたいと思った、2023年の父の日でした。