諦めるというのは、力を抜いて「サレンダー」の状態になるということかもしれないと思った話 ~悲しみも苦しみも、そのままでいい~
スヌーピーってかわいいですよね~。
我が家にも小さくて柔らかい素材の「スヌパイセン」がいますが、それ以外にもシールや付箋など、やっぱりかわいくてお迎えしてしまうものがたくさんあります。
ねーーっ。
先日、図書館に借りていた本を返しに行った際に偶然目について、借りずにはいられなかった一冊。
スヌーピーが描けるようになったら、ノートや手帳の隙間にササッとカワイイスヌーピーを散りばめられて、それって幸せじゃない!!
スヌーピーの描き方本では、昔のスヌーピーから今のスヌーピーになるまでの「3世代」のイラストの描き方が紹介されていました。
今のスヌーピーは、ふっくら感と丸みが増していてかわいさが増していました。
で…
描き方の特徴が紹介されていますが、まずその「シルエット」を表現する画力がないのよ!!!という感じで、
描ける気がしない…
と、スヌーピー以外の仲間たち(チャーリーブラウンとか、サリーとか)や、動きのあるスヌーピーなどは、どう頑張っても描けないと早々に諦め、基本のスヌーピーだけを練習しました。
少しだけ、少しだけは「スヌーピー感」がある気もするけれど、私が描く絵のクセが混じり、スヌーピーとは言い難い…。
色々諦めつつも、スヌーピーに出てくるグレーのネコのファーロンの顔も真似て練習。
が、これもやっぱり「私が描く時のクセ」が出ちゃって、ファーロン感が薄い。
あーっはっは。
私はイラストや絵を描くことが下手で、イラスト練習帳などを幾冊も買って真似ましたが、どうにもコツが掴めないんですよねーー。(白目)
私には画力はないのは残念だけれど、まぁ、味のある「私らしい」スヌーピーというか「偽スヌーピー」だと思えば、これもまた愛おしい…よね??
他にも一緒に借りた本があるので、返却までにもう少し時間をかけて「スヌーピーを描く闇練」をしようと思います。
超絶うまくなっちゃったり…したら嬉しいな。うふふ。
* * *
このところ、サラリーマンの仕事が「ほんっとうにバタバタ」していて、お風呂に入ってボーッとするとそのまま骨抜きになり、ブログを書く力もなくバタンと寝てしまっていました。
そんな日々の中でも、お風呂読書は私の心を潤わせる大事な時間。
お風呂読書では、ジップロックに入れて防水仕様にしたスマートフォンを持ち込んで、Kindle電子書籍を読みます。
今週のお供に選んだのは、ターミナルケアやグリーフケアにも長年携わってこられた、シスター・鈴木秀子さんの著書。
「あきらめよう あきらめよう 不安 イライラ 怒り 執着を消すヒント」(鈴木秀子さん著)では、色々とハッと思うような気付きを沢山もらうことができました。
執着したままでいるのはつらいことだからこそ、現状を「明らめて」見た上で、自分にはどうすることもできないことを「諦める」ということについて、たくさんの実例をもとにした話が紹介されていました。
鈴木秀子さんは「諦める」ことを語られるときに、『聖なる諦め』と表現されていますが、聖なる諦めって素敵な言葉ですよね。
諦める…って、どこか後ろ向きに感じてしまう言葉ですが、「聖なる諦め」という言葉に変わると、自分を責めたり否定的な見方をするのを弱めることができるような気がします。
諦めるのは「投げ出す」ということではなく、自分ではもうどうすることもできない物事に対して、執着する自分を楽にしてあげるための『優しい考え方』。
生きていると、本当に自分ではどうすることもできないことに涙することはたくさんあります。
どんなにもがいても、どんなに頑張っても、自分の望む現実にならないことって、本当に苦しいものです。
私自身、離婚問題の最中にあったときには執着して手放せず、諦めることがどうしてもできなくて、何年も苦しみました。
他にも、リストラや失恋、病気や不調による健康の喪失、進学や卒業でのこれまでの居場所の喪失、死別などの「自分ではもう、どうすることもできない」出来事を前に途方に暮れることもあります。
自分の力ではどうすることもできない現実を「受け入れていく」ために、「諦め」ていくしかないけれど、それがもう本当に、どれだけ苦しいことなのか。
聖なる諦め、現実を受け入れるためには、そうなるしかなかったすべてを「あるがままに許していく」しかないんですよね。
諦めるためにもまず、執着して身動きできない今の自分を「許す」。
許すことをひたすら繰り返していく先で、もう「どうにもできないんだ」と諦め・受け入れる瞬間がやってくるのだろうと思います。
なんなんですかね、あれ。
とことん先まで行きつくと、諦めが手を広げて待っていてくれるのかな?
私も散々執着して、もうどうしようもない…と観念して白旗を上げたときに、「諦める」ことで自分が楽になりました。
もう、万策尽きた。
もう、どうしようもないんだ、って。
そこで不思議と、諦めると同時に力が抜けて、「しょうがないんだ」「それでもどうにかなっていくんだ」と何かわからないけれど、自分自身を預ける・委ねるような気持ちになれました。
諦めても、また数時間後に「あーー、でもーーーっ!」と思ったりはするんですが、そうなっても諦めを噛み締めた後と前とでは、執着の度合いは全然違うものでした。
「私はめいっぱい頑張りました。それでも、これ以上はできませんでした。だから何とでもしてください」
あきらめる(精いっぱいやったことを明らかに認め、余計な心配をし続けるのを諦める)ことができてこそ、なんとかやっていけているのです。
(引用:あきらめよう、あきらめよう 不安、イライラ、怒り、執着を消すヒント/鈴木秀子さん著)
諦めるとはきっと、受け入れて自分を許すこと。
諦めることは、自分でどうにかしようとする力を抜く、いわゆるサレンダーな状態なんだなぁって。
・どうにもならないことを認める
・信頼して委ねる
・流れに身を任せる
・人事を尽くして天命を待つ
自分で物事をコントロールしよう!したい!と思っちゃうし、頑張っちゃうし、もがいちゃうけれど、自分ではどうすることもできないことも、生きている間には幾度だって起きるものです。
もう、どうしようもない
と腹を括るというか、自分で何とかすることを手放す先にあるのが、自分を許して自由にする「諦め」なんですもんね。
そして、流れに身をまかせ「なるようになる!」と自分でもがくのをやめて力を抜いた後は、執着での苦しみは和らいでいくけれど、しばらくの間は『ただ流される』ようにゆらゆらと力が入らないのは仕方のないこと。
そして力が入らずに「流される」ことが、きっと『なんとかなる』を信頼しているということ。
でもね、ほんとうになんとかなっていくんですよね。
諦める力というのは、レジリエンス(回復する)のためにも大事なこと。
柳の枝がしなってもまたしなやかに戻るように、理不尽な悲しみや苦しみを前にしても、私たちはまた立ち直っていく力を備えています。
でもね、諦めずにいたら、枝がしなるのを超えて折れてしまいます。
折れてしまったら、そこからまた新しい枝をつけていくことができるとは分かっているけれど、時間がかかってしまいます。
諦めきれない状況の中で、立ち止まったままでいるしんどい時間も長くなっちゃいますものね。
しなやかに「なるようになる」を受け入れ、弱い自分を許し、現実を許し、諦めることでゆるやかに立ち直っていく。
諦める・手放すというのは、「忘れる」ことではありません。
心の奥に残したまま、共存しながら、現実をただ「受け入れて」いく。
大切な気持ちは、大事に側に置いたままでいていいし、愛したままで生きていい。
諦めたとしたって、しばらくはぐらぐら揺れるのは当然だもの。
やじろべえがいつしか揺れ幅も狭くなって静かに動きを止めるように、共存する思いもいつしか時間をかけて角が丸くなって柔らかくそこに「ある」ものになっていくのだから。
諦める時にきっと、私たちはふっと力を抜くと同時に、別の力を取り込むのかもしれません。
別の力は「委ねる」というサレンダーの力。
力を抜くまでには、それぞれの時間や道のりがあるものですし、その道中にいる間はしんどいけれど、諦めもそんなに悪いものじゃない!と、いつか何かを諦めなければいけない自分に、今日の気持ちが届くといいな、と思っています。
ではでは。
明日も「月イチ土曜出勤日」で仕事なので、そろそろ寝ようと思います。
おやすみなさーーい。