ノーベル賞のきっかけが「うっかり」「やらかし」だと知って、うっかりな自分をもっと寛大に見てあげたいと思った話。
少し前から「ドライキウイ」にハマっているオマミーヌ。
スーパーで小さな袋のものを買って、リスのように小さく齧って味わっていたのですが、あっという間になくなっちゃうし、その都度買いに行くのも面倒だし…と、インターネットで探してみたら「キロ単位」で売っているのを発見!!
1袋1キロ入りで、2,000円ちょい。
これが「高いのか安いのか」は分からないのですが、どうせ送料がかかるなら「大人買い」しちゃおう!と2袋買っちゃいました。
お砂糖不使用のキウイもあるようですが、こちらはお砂糖入りのドライフルーツ。
なので「甘い」のですが、仕事中に煮詰まってきて甘いものが食べたくなると、ドライキウイをチビチビ齧るだけで「甘いもの欲」が満たされるので助かっています。
1日に3~5枚くらいをチビチビ食べていますが、とにかくずっしりと大量に入っているので、「食べても食べてもまだたくさんある~」とニコニコです。
今回買ってみたのが、「ナッツとドライフルーツの専門店 小島屋」さんというお店だったのですが、色んな種類のナッツ・食べたことがないドライフルーツもあり興味津々。
ピーチ、ルビーグレープフルーツ、パッションフルーツのドライが気になっているので、次にキウイを頼む時に一緒に買っちゃおうかな??
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少し前に「66歳、動物行動学研究家。ようやく「自分」という動物のことがわかってきた。(竹内久美子さん著)」の本のことをブログに書きました。
私は数学・英語がめっぽう苦手で、化学は好きでしたが得意かと聞かれると答えは否。
つまり、全くもって理系ではないといのですが、著者の竹内さんは、バリバリの理系。そして「研究職」だった時点で、私とは全く遠い星の世界の話なのですが、だからこそ『へぇ~。へぇ~。』と、トリビアの泉ボタンを連打したくなる気付きが幾つもありました。
その一つが、失敗や間違いに関する『理系目線』の話でした。
理系では、既に誰かが到達している考え、遅かれ早かれ、誰かが到達するであろう考えに到達してもあまり意味がない。となれば、早とちりでも、勘違いでもいいから、どりあえず思いっきり変な方向へ飛んでみるべきだ。それが間違っているかどうかは後から検証すればよいだけの話。
ノーベル賞級の発見には、この早とちりや勘違いによって、普通の人なら行わないようなことをしでかしてしまい、結果として大発見に至ったケースがある。
(引用:66歳、動物行動学研究家。ようやく「自分」という動物のことがわかってきた。/竹内久美子さん著)
発明王のトーマス・エジソンも、「失敗ではない。 うまくいかない一万通りの方法を発見したのだ。」という名言を残している様に、理系の人から見たら
結果に結びつかなかった ≠ 失敗
なんだなぁ。
それって、とっても素敵な「見方」ですよね。
失敗だとか、やらかしたとか、ダメだった…ということも、視点を変えれば「これじゃないって分かったもんね!」と言っていいんですもんね。
そして、そう言えるのは『挑んだから』『用意周到ではなかったりフライングだったとしても、やってみたから』なんですよね。
間違いや失敗は「起きて欲しいもの」ではないとはいえ、自分が動かなければ「失敗すら体験できない」こと。
とはいえ、やっぱり失敗はしたくないなぁ…と思っている私でしたが、この本の中には「ノーベル賞」を受賞するきっかけについてこんなようなことが書かれていました。
ノーベル化学賞を受賞した「白川秀樹さん」(2000年)や、「田中耕一さん」(2002年)の発見は、どれも普通の人では思い付かない組み合わせをしたことがキッカケになっているのだそうです。
白川秀樹さんの場合は、化学反応を起こさせるための触媒の濃度を『1,000倍』にしたことで、電気を通さないと思われていたプラスチックに電気を通す方法を見つけるキッカケがうまれたそうですが…
1,000倍の濃度でテストしてみよう!
なんて、凡人では思い付かないですよね??
というか、本の中では『早とちりや勘違いじゃなければ、触媒の濃度を1000倍も間違えるなんてありえないこと』と書かれていました。
確かに…カニ。
理系の人は「他の人とは違う視点・新しい角度から責めること」が大切だとはいえ、確かに『1,000倍の濃度にしよう!』なんて、はかり間違えがないと思い付かないですよね。
田中耕一さんの発見でも、通常混ぜ合わせない試薬をウッカリ混ぜてしまったものの、試薬それぞれが高価なものだったことで「残しておいた(取っておいた)」ことがキッカケとなり、これまで不可能だとされていた「タンパク質のイオン化」に成功し、ノーベル賞を受賞されているのだそう。
人生においても、私たちは時に「えっ?」という場所でつまづいて、道を間違えたように感じたり、失敗したように思える出来事に遭遇することがあります。
かくいう私も、結婚生活でつまづき、自分では思いもしなかった人生に舵を切り、予想外の道の上を今現在歩いています。
正直言えば、すごく苦しかったし辛くて、私はどこで間違えてしまったのだろう?私はなぜ、人生を失敗してしまったのだろう?と、自分を責めて情けなく思った時期もありました。
うーん、今は「しょうがなかったんだ」と自分に対して言ってあげられるようになったとはいえ、『離婚するという選択は成功だった!』とは言えません。
離婚して歩くことになったもう一つの「予想外の人生」も、決して悪いものではなかったけれど、それを望んでいた訳ではありませんから、ね。
でも、私にとってはすごく大きな痛みを伴った『挫折』体験があったことで、見つけられたこと・得られたこと・気付けたことがあったことも事実です。
それは例えると、歩いていた時にステンと転んだことで、普段歩いている時には目にはいってこなかった『足元の草花』に表情があることを知れたようなもの。
転ぶことがないとその目線になることはない、転んだからこそ見えた世界。
痛みを伴う世界だったかもしれないけれど、そこでしか見えないものもあるんですよね。
そしてきっと、人生はその時点で自分を見ていたら「失敗した・挫折した」ように見える出来事が、後になって『オセロの駒がひっくり返るように』人生を変えるキッカケになっていたんだと気付いたりすることがあります。
「人生万事塞翁が馬」という話のように。
未来の私に、どんな化学反応があるかは分かりません。
失敗のように感じた「離婚」を経たからこそ、もっと素敵なパートナーシップが築けたんだ!って言える日が来るかもしれませんしね!!
その日は、まだ私には分からないけれど、でも「失敗が種となって大きな実を結ぶ」ことだってあっていい訳ですもんね。
ノーベル賞のキッカケが「うっかりや間違え」であったように、人生においても挫折や失敗をすることで、自分では思いもしない方向に舵を切ることになって、自分では想像しえなかった成果を未来で手にする可能性だっていっぱいあるはず。
だからね、その失敗は「今時点」では失敗だけれど、未来になったら「幸せのきっかけ」にクルンと変わってくれるかもしれません。
失敗をしたり、間違えた時はどうしたって胸が痛んだり、心が押しつぶされそうになるものだから、そんな自分を「ヨシヨシ」って労わって寄り添ってあげて、決して見捨てずに側にいてあげて、痛みの角が丸くなって少しずつ元気になれるまでは、決して無理はせずに過ごしてくださいね。
問題の最中にある時は、それをやり過ごして「乗り越えたり共存できる日が来るのを待つ」だけで十分です。
それだって本当に力がいることですものね。
そしてそうやって自分に寄り添っているうちに、未来の方から「実はそれは失敗じゃなくて、新しい人生のための大カーブだったんだよ」と優しく照らしてくれる日が、きっとやって来てくれるはず。
自分が描いた物とは違う未来であっても、ちゃんと笑えて幸せな未来、自分が想像できない喜びある未来があるかもしれないんですもの。
そう思って、自分をヨシヨシと慰めてあげて、未来にうっすらとした希望の光の点を見つけてあげることが出来ますように。