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『ペットロス・離別・失恋』サヨナラの痛みと哀しみを癒す心の保健室 ~あなたの傷に優しく絆創膏を貼るお手伝いをしています~

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人生という旅で成し遂げたい事は、きっと未来に分かるはず

マミコちゃんが子供の時に こーいうガムがあったって キャッキャしてたでち

今日はカラッと気持ちよく晴れた土曜日。
ですが「月イチ土曜出社日」のため、お家で黙々と作業。

とはいえ在宅勤務なので、お昼に気持ちよく仁くんとお散歩に行ってリフレッシュしたり、ギンちゃんと並んで網戸からの風を感じてほっこりしたり、気持ちよい環境で仕事をやれています。

突然ですが、冒頭の写真のガム、めちゃくちゃ懐かしくないですか??

私が子供の頃、文房具屋さんと駄菓子屋さんが一緒になっていたお店が校区内にあって、新しい鉛筆と一緒に駄菓子を選ぶ幸せな時間に、マルカワのフーセンガムをよく買ったなぁ。
4粒入りで、まとめて4粒食べるのが贅沢気分で、でも貧乏性の私は大体1粒ずつを大事に食べたっけ。

そんな懐かしのあのガムが、まさかの入浴剤になっているのを見つけて興奮。

ガムのパッケージとまんま同じ!!

今見るとめちゃくちゃ昭和レトロな感じがしますが、パッケージは子供時代のそのもので、もうこれは買わずにはいられない…

ガムと違って、意外とでかいんですよ

写真だと大きさが分かりづらいので、ギンちゃんと一緒にパチリで大きさを表現してみました~。

中には丸いバスボール型の入浴剤が4粒。
細かいところまで忠実で、嬉しくなっちゃいます。

今晩、飲み行く約束があるのですが、少し年下ではあるけれどほぼ同世代(だと私が勝手に思っている)の友達にもプレゼントするつもりです。
むふふ、喜んでくれるといいなぁ~。

* * *

最近は仕事もちょっとだけバタバタしていて(春から忙しい波に飲まれっぱなしです)、仕事をあれこれしながらも、ふと思いつくことがあるとスマートフォンのメモに雑多にあれこれ書きとめるようにしています。

新潟市内ではまだ見かけたことがない「カラー筆ペン」の欲しい品番だとか、読みたい本のタイトルだとか、こんな言葉に変換すると自己否定する自分を笑わせられるとか…
もうほんと、雑多にあれこれ。

その雑多書きのメモから、今日はブログを書こうと思います。

私はグリーフケアを勉強していますが、学べば学ぶほど「死」について考えることが増えました。
同時に動物グリーフを学ぶ中で、喪失後のケアだけではなく、看取りを含めた大切な時間についても考えることができるようになり、今年になってから、看取りについての学びも少しずつですが始めています。

「死」について考えると言っても、自分が死にたいとかそういうことではなく、今まで意識していなかったけれど誰しもが死ぬことは決まっているし、決まっている未来があるのに私は何も死について知らなすぎる…という感じなのですが、

「死」を考えることでよりしっかりと「生」が際立つ

ということも体感しています。

大事な方へ遺す言葉 ~Role letter~
大事な方へ遺す言葉 ~Role letter~
ギンちゃんの前に置いたプリントは、先日のグリーフケアの講座で使った「ワーク」のプリント。講座の冒頭、10分でプ.....
https://many-smiles.com/about-me/role-letter

以前「Role Letter(役割を持った手紙)」の記事にも書きましたが、生きているって本当にたくさんのものを手にしています。
当たり前すぎてそれに気付けないことの方が多いけれど、生きているってそれだけですごく貴重な体験をできているんですよね。

* * *

グリーフケアを学ぶ中で、死ということについてもたくさんの本を読んだり、グリーフ・看取りに関する話も聞く機会がありました。

宗教的な要素だったり、スピ的な話だったり、科学的な見地だったり、学術的に研究している人の話だったり、色々読んだり聞いたりして共通しているのが、

私たちの肉体は借り物であり、魂(と表現するのがふさわしいか分からないけれど)が肉体から光のような存在(これも3次元の人間では表現できないので光というのが近いらしい)になる、というもの。

光ような状態にある時は「愛の世界で完璧な存在」で、とても心地よいのだそうだけれど、その後にまた学ぶために人間になる、というような話を数えきれないくらいの本で読みました。

正直なところは分かりません。
だって、死んだ体験・記憶がないから。

そして、この世界で「死んでまた同じ命をやり直した人」は、イエス・キリストくらいしか存在していなくて、誰も死んだ後のことを正確に伝えてくれることがないから。

スピな話になっちゃうけれど、『完全でなんでも叶う光の世界』で生きているのに、好んで人間をやろうと思うのは

不完全であることをきっと楽しみにしているからなんだろうなぁ。

だけれど私たちは、生きている間に不完全さゆえにたくさんの葛藤をします。
「不完全さがお楽しみ」だなんてちょっとも思えなくて、傷付いたり押さえ込んだり、生き辛さに頭を抱えたり。

そして色んな体験や考えを通して、少しずつ自分と折り合いをつけることを覚えながら、自分としてどう生きたいのかを探して生きていくんですよね。

私たちの人生の中では、手にできないものもいっぱいあります。

子供がいる人生を願っても手に入らなかったり、子どもがいることで自分の時間を取ることが難しくて何かを諦めるたり問題を抱えたり。

それぞれが「良い面と悪い面」の両方を持っているけれど、どうしても今見えていない(手にしていない)片方の面しか見えなくて苦しむんですよね。

ルビンの壺

だまし絵として有名な「ルビンの壺」は、両方を同時に見ることができません。

両方は叶えることができないけれど、どちらかがあるから「いいな」「羨ましいな」と見える世界で私たちは生きているんですよね。

そして自分が手にすることができないもう一つの世界があっても、それを手にできないのは『自分に落ち度があるから』ではないことのほうがたくさんあります。

何か人間として欠落しているからとか、命としての欠陥があるから不慮の事故や災害に巻き込まれるのではないように、願ったことが叶わなかったとしても、自分が全ての原因ではないと思うんです。

私は子供を授かるということができませんでした。

後になって「子宮腺筋症」で、私の子宮では子供を授かるのは難しかっただろうという話を先生から聞きましたが、病気だって私が罪深いから、努力が足りないからなったわけではありません。

不完全だからこそ、自分ではどうにもならないものがあるんですものね。

諦める、受け入れるって、すぐにはできないことの方が多いものです。

けれど生きている中で「何もかもを手にする」ことはできないし、たくさんもがいたり妬んだりわめいたり、みっともないこともいっぱいして葛藤しながら、ゆるゆるゆるーーーっと時間をかけて、自分が不完全であることに折り合いをつけていっているんですよね。

自分が不完全であることを受け入れることが、人生という旅でやりたいことなのかもしれない。

スマートフォンの雑多メモに書いた短い言葉ですが、きっと一生という時間をかけて自分の不完全さを受け入れていくことをしている私は、いつか私の人生を終える時に「成し遂げたい事」についての答え合わせをするのだろうと思います。

今はまだ、その答えは分からないけれど、私になりに不完全さを受け入れることをやりに来たのであれば、ゆるゆると受け入れ続けていこう!と思ったら、また一つ肩の力が抜けました。

なんだか書いていてどう収拾すればいいのかワケワカメになりましたので、ここで伝家の宝刀のアレを使います!!

ほな、ドロン!!!!

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