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『ペットロス・離別・失恋』サヨナラの痛みと哀しみを癒す心の保健室 ~あなたの傷に優しく絆創膏を貼るお手伝いをしています~

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哀しみに折り合いをつける

うなぎの日ですか… 白焼きじゃなくてかば焼きですか。たれ、洗ってくださいですよ。

こんにチワワ(← 突然のチワワギャグ)

今日は「土用の丑の日」なんですね!
朝、天気予報で気象予報士の依田さんが「今日は土用の丑の日です」と言っているのを聞いて、慌てて近所のスーパーでうなぎチェック!

美味しいお店に食べに行ければいいのですが、実はどこが美味しいとかあんまり詳しくなくて良く分からないので、数年ぶりにうなぎを買ってみました。

お魚好きのギンちゃんが「なぜ蒲焼を…」とブーイングを言っていますが、白焼きは大きいサイズしかなくて食べきれずに持て余すからよ!!
今年はうなぎはお安く買える年らしく(依田さん情報)相場が良く分からないのですが、ハーフサイズの蒲焼で500円せずに買えました。(安いの?高いの??)
今晩はビールを飲みながら、うなぎをチビチビやろうと思っています。

* * * * * *

週末、とても悲しいニュースが飛び込んできましたよね。

俳優「三浦 春馬さん」の早すぎるお別れのニュースを妹からLINEで知らされた時に、ヤダヤダ!!と瞬間的に思い、けれどやっぱりそのニュースは間違いではなく、悲しい現実でした。

実は私は、あまりテレビをつけません。
朝の情報番組なども、あまり真剣には見ないようにしていて、時折面白そうなお笑い番組やバラエティ、気になるドラマやクイズ・旅番組的なものを見るくらいで「怖いもの」「悲しすぎるもの」「感情が揺れすぎるもの」は避けるようにしています。

とはいえ、ドラマや映画などでも油断すると思いっきり感情移入してしまうというか共鳴しすぎるというか、とにかく具合が悪くなることもあり、そうなると数日間は心が晴れずに暗い気持ちや悲しい気持ちを引き摺ります。
(大好きなはずの「若草物語」も泣きすぎて実は3日くらい引きずりました。)

ニュースを聞いて、やっぱりとても悲しくて何とも言えないもどかしさや無力感や虚無感・絶望感があり、考えない・感じないために情報を遮断して「見ない」「聞かない」ようにしました。

とはいえ、感じてしまった「悲しさ」ってどうしようもないんですよね。

昨日はなんか気持ちが沈んでしまい、無理せず早々に寝て考えないようにすることにしたのですが、今日、同じように沈んでしまっているサトヒちゃんと少しやり取りをして、自分が感じている「悲しみや不安感」をただ話すことで随分と楽になる体験をしました。

いろいろな作品に出ていてどれも素敵なのは知っていますが、私が一番好きな春馬くんは『ラスト・シンデレラ』というドラマに出ていた時の春馬くんです。
(君に届けの風早くんも好きです)

このドラマが始まる前に、私は旦那さんだった人に「離婚したい」と言われ、一度目の夫婦問題の中にいました。
同じ空間にいても「いないもの」のように無視されていて、自分を責めながらも彼の前では出来るだけ普通にしていよう…と思いつつ、うまくやれずにどんどんやつれていっていた頃、気分を紛らわせたくて見たドラマでした。

凄く辛くて希望が持てない日々の中で、心から楽しめて見れていたわけではないけれど、年下の彼と結ばれる最後にキュンキュンさせてもらいました。

一方的にキュンをもらい、ありがとう。
あの時、私はすごく助けてもらいました。毎週1時間、悲しみとか辛さとか孤独とか、そういうのをほんのちょっと緩めることができる時間をもらっていました。
本当に、ありがとう。

私は熱烈なファンでもなければ、ただ「素敵な俳優さんだな」と遠くで思っているだけの存在なのに、それでもこんなに悲しい気持ちになるのは

何かしてあげられたわけではないけれど、何かしてあげたいと思わせる「春馬くんが先に蒔いたたくさんの優しさ」が人柄として現れているのを感じ、なんで死を選択するほどまで何かを背負ってしまったんだろう?なんで助けになれなかったんだろう??という無力感を勝手に感じているからなんだと思うんです。

テレビを通してしか知らないけれど、勝手に助けてもらった気分になったり、手の届かない王子様(非の打ち所がない)が、気づかいや優しさ・努力の影で誰にも何も言えずに抱えていたものがあったんじゃないか?と想像すると、あまりに切なくて胸がつぶれる気持ちになるんだ、と。

そして何より「死」というのはもう、会えないという現実を突きつけるから。

ましてや突然で、そしてまだまだ未来のある命が、自らの手で終わりの日を選んでしまったなんて、やっぱり受け入れるのは難しいですよね。

何か背負っていたのであれば、我慢した人生であれば、誰よりもストイックで追い込んでしまい辛かったのであれば

辛いままではなく幸せに笑う時間を過ごさせたかった

という思いが溢れて、だからきっとみんな、すごく悲しいんだと思うんです。
そして多分、自分と重ねる部分も少なからずあったのだとも思います。
頑張り屋さんはその「頑張る姿」に「頑張らなくていいんだよ」と言ってあげたくて悔しいでしょうし、自立ゆえに受け取れない人は「愛されている事を受け取れたらよかったのに」と涙が出るでしょうし、誰にも気持ちを言えずに抱え込んでしまうクセがある人は「それでも頼って欲しかった」と胸がつぶれそうでしょうし、「優しさを自分に向けて欲しかった」と優しい人は思っているんだと思います。

悲しさや不安は、感じるのはイヤな感情だけれど、悲しいと思えるくらいお別れに後悔や痛みを覚えられるほどにあなたという人が「愛せる人」「優しい人」なんですものね。
そんな揺れる自分の「大きな愛」を思い出して大事にしないとですよね。

やりきれない悲しみを感じる時間は『喪の時間』として心を整理する大切な時間です。
哀しみと同時に「なんで?」「どうして?」「なんなの!!」といった疑問や怒り、「ヤダヤダ、信じない」といった否認の気持ち、虚無感や不安がごちゃごちゃと同時に入り乱れるのは、喪失を体験したときに起きる自然な心の反応です。

その時間を経て、緩やかに緩やかに「仕方のない事だったんだ。あの人はもう魂の還る場所へ行ったんだ」と気持ちに折り合いをつけていきます。
立ち直るのは悲しみを忘れることではなく、悲しさを持ちながらも前に向かって生きていくという事なのかもしれませんね。

死は決して納得できる答えがあるものではありません。

たとえそれが、余命宣告を受けて出来ることを精一杯届けられたとしても口惜しさと後悔、あれでよかったのだろうか?伝えたいことはなかったのだろうか?もっと一緒にいたかった、と必ず後悔と罪悪感を抱えるものです。

死を受け入れるというのは、答えなど本当は何もないけれど、自分を納得させる答え探しをして、故人に対して居心地の良い解釈を「自分が」すること。
正解なんてどこにもないからこそ、自分にとって「ありがとう」って思える感謝や愛に紐づいた答えを見つけることが、生きていく自分を助ける方法なんですよね。

また、私たちはどうしても「自分のフィルター」や「自分の経験」をもとに世界を見ているからこそ、自分の痛みを重ねてしまったり、過去に自分が助けられなかった後悔なども重ねてしまい、勝手に悲しみを作り上げることもしてしまいます。

そして「誰かの痛みを想像できる」共感力や寄り添う力があるからこそ、悲しみに暮れているんです。
自分専用のメガネをかけてではあるけれど、相手の痛みや悲しみや絶望に「思いを馳せて理解したい」と思いやる心があるからこそ、辛いんです。

そんな自分の優しさを、誇りに思い大事にしてあげなくちゃですよね。

死はどれをもっても「受け入れがたい」ものではありますが、自死というのはより受け入れがたい死です。

死に関しては分からない・経験したことがないので怖いし不安だし悲しいものであって、だからこそあれこれ想像して苦しくなります。

ここから先は、本当に余談になります。

* * * * *

様々な宗教観・科学・価値観・思い、どれが正解でどれがいいではなく、必要だから存在しているものです。
その中で、私が死に対する気持ちにほんの少しですが「優しい見方」ができる言葉として私の心に響いたものをご紹介します。

京大病院の救急・集中治療部部長をされた「矢作 直樹先生」という方の言葉です。

職業柄「命の灯が消える」瞬間に立ち会うことの多い矢作先生は病気の方を見ているという前提はありますが、死を前にした人についてこのように書かれています。

「お迎え現象」の一つに、患者の顔の変化があります。死の数日前になると多くの末期患者の顔が、なぜかほころぶことがあります。(中略)いよいよ最期の時を迎える瞬間、まるで別の世界にいるような感じで顔がほころぶのです。
残念ながら患者の全員が亡くなってしまうので、彼らがなぜ顔をほころばせていたのかは確認できません。
(中略)
臨死体験をして死後の世界を垣間見てきた人は、その後死を恐れなくなるようなのです。
臨死状態に陥った人は、その間、安らぎや解放感を覚えたり、強烈な光を感じたりするようですが、いずれも不快な現象ではありません。そのため、「死は、ただただ恐ろしいものではないのかも」という安心感が芽生えるのです。

自死を美化するわけでも勧めるわけでもなく、私たちが感じている「死」への意識は、もしかすると亡くなる直前に「お空の上で決めてきた過去を思い出せることで、またあの場所に還るんだ」と安心できるものに変わるのかもしれませんよね。
というか、そうであって欲しいな、という私の願いでもあるんですけれど。

また、ガンジーやソクラテスは次のようにも「死」を表現しています。

死は救済であって、友人を家に招き入れるように受け入れるべきものだと。死は肉体からの解放であり、そこに宿っていた魂がなくなることはない。

ガンジーの言葉

”死”は”終わり”ではない。”解放”である。

ソクラテスの言葉

「眠れないほど面白い 死後の世界」(並木伸一郎 著)には、このような記述もあります。

精神世界で著名なスウェデンボルグによると、死は霊がひとつの道具としてきた肉体の使用をやめただけのこと。

「誰も書けなかった死後の世界地図」(A・ファーニス著)ではこのような言葉もありました。

人間は地上生活が主で霊界は死後の付属的なものとして考えがち。実際はその逆で霊界が本来の居場所で、地上生活は仮住まいのようなもの。
つまり人間も、家族同然のペットたちも本来の居場所に戻るだけ。
死は「永遠のふるさと」に還る喜ばしい出来事であるのが真実の姿。

ここで書いたことは、本当なのかどうかは分かりません。
私たちは肉体の死を体験した後で光のようなものに還り、また「人間を体験したい」という事情があれば新しい肉体の命を生きることになるらしいのですが、生まれてくるときに光の記憶は全て忘れてしまう神様との約束なのだとかで、そうなるとまっさらに生きなおしているわけですから、この話が正しいのか作り話なのかも、知りようがないんですものね。

死についてはやっぱり分からないし、悲しいし、ショックだという事だけは事実です。
いくら「永遠のふるさとに還る喜ばしい事」だとしても、残された生きる側は、やっぱりもっと一緒にいたいと願うのが自然ですものね。

ただ、死は避けられないからこそ、自分にとっての「納得できる考え方」を採用して受け入れていくしかないからこそ、様々な考え方や宗教があるんだろうと思っています。

私は死が怖いですし、不安です。
大切な人を失う怖さを想像するだけで気が狂いそうになります。

だから、考えないようにしてはいますが、その中でも自分がどうにか納得したくて自分にとって受け入れやすい(受け入れたい)考えをいろいろ探しています。

* * * * *

哀しみとの折り合いの付け方や納得の仕方は人それぞれです。
正解も間違いもありません。

悲しさや不安があれば、それを感じていいですし、誰かに話し共有するだけでも気持ちは軽くなれますから、あまりに心が晴れずに落ち込みから抜け出せないのであれば、お友達に聞いてもらったりカウンセリングを使ってみたり、いのちの電話などで不安な気持ちに寄り添ってもらったり、グリーフケアの自助グループに助けを求めることも大事だと思っています。

悲しい気持ちになることはおかしなことではありませんが、落ち込みすぎるようでしたら頼れるところに頼っていいので、自分が悲しみに飲み込まれ過ぎて自分を失ってしまう事がありませんように。