なにかになれなくてもいいんだ。私は「私」になりたいと思って、この世界にやってきたのだから。
自分のための「自由時間」を満喫していると、カットインしてくるグレーなイケメン。
ネコハラされていても、愛おしくて目を細めてしまう親バカですが、ギンちゃんの視線の先にあるのは「大人の飲み物」。
えへへ。えへへ。
琥珀色の液体は、今年の1月に会社絡みで箱買いした『プレミアムなエビスビール』。
贅沢に本物ビールを飲む時間は、大人の幸せ時間!
昨日はオニチクコンビで久しぶりに開催した「自分に優しい世界を作るお茶会」でした。
ご参加いただいた皆さん、楽しい時間をご一緒していただき、ありがとうございました。
それぞれがにっこりしながら他のご参加者さんの話を頷いて聞いている姿や、それぞれにバトンを託すように「〇〇さんはどうですか?」と語りかけてくれているのを見て、
お互いに優しさを循環できる素敵な方たちだな~
と思って、一人密かにあったかい気持ちを充電させてもらっていました。
他にも、自分の体験談をもとに「そう思わなくていいんだよ」「あなたの選択は素敵だよ」と肯定的に周りを励ましてくれたり、仕事の話や恋バナや、こんなに成長したよ!という近況報告などなど、気づいたらあっという間に時間が過ぎていました。
オニチクコンビで作る場では、
どんなあなたでもいいんだよ。
何を思っても、何に迷っていても、大丈夫だよ。
あなたがあなたであるだけで、いいんだよ。
というのを安心して感じてもらえるようにしたいと、昨日もサトヒーヌと二人でしみじみ語ったばかり。
昨日のお茶会も、「扉を開けた先の優しい安全基地」になれていたらいいなぁ。
まだまだ力不足なところはあるけれど、思いを持って『場所づくり』をしているうちに、ちょっとずつでも自分が成長して、優しい安全基地になっていきたいと思っています。
ちなみに…
いつもお喋りに夢中になり、zoomでのスクリーンショットを取り忘れ、解散してから「あっ!」と気付くのも、これまたいつものオニチクスタイル。
ご参加者さんとのおもひでのシーンをブログに載せられずですが、本当にほっこりなお昼時間をご一緒させていただき、ありがとうございました♡
* * *
ここから先は、昨日のお茶会の最後の方に、チラッとお喋りさせてもらった話をします!
療養を機にに立ち止まり、ネガティブに寄ってみたり落ち込んだり、いろんな感情と向き合いながら”冬の時期”を過ごしました。
この期間は、私にとっては「すごく大きな転機」になっていると思っています。
私の中には「何かを頑張らなくちゃいけない」「何者かにならなければいけない」という思いが根強くあり、
なんにもできない私
というのが居心地悪く感じ、動かない(動きたくない)自分にモヤモヤしていました。
過去形ですが、今もまだ「うーーむ」と引っかかるような気持ちはありつつも、動かない私であってもいいじゃない!と、どこか少しずつ吹っ切れてきているのも感じています。
焦らない、焦らない。
答えは一気に出ないことの方が多いのだし、感情は揺れ動いて少しずつ方向が見えてくるのだから、ね。
そんな感じで、自分に優しい目線や声掛けを続けている「今」の時間は、きっといつしか『あの時間があったから』につながるんだと信じています。
【備えよ常に!】の意識が強い私は、未来のことを考えてあれこれと今を蔑ろにしがちだということを、少し前のブログで書きました。
もっと私のことを大事にしてあげたい。
もっと私のことを心地よくしてあげたい。
もっと私を優先してあげたい。
立ち止まったら、私は私を少しおろそかにしていたことに気付き、時間の使い方も変えていきたいなぁ~と試行錯誤中です。
自分を満たすことを最優先にする!
と「今」の私は決めたので、夜時間は自分が望んでいる好きなことをたっぷり味わおうと思っています。
せっかく今は仕事の休みももらえていて、自由を満喫できるので…
夕方からビールを飲んで、好きな本を読んで気持ちよくなる!を楽しんだりしています。
何かを学ぼう!何かを得たい!と思って読むものを決めるのではなく、図書館でフラッと気になった本や、周りの人が読んでよかったといっていた本を読んだりと、気ままな読書をしていることで「あっ!」と気付けることや、自分の中に小さな種を蒔くような時間が持てています。
* * *
入院していた時に、個室とはいえあんまり夜更かしをするのも身体の回復に良くないだろうと思い、早目にベッドで目をつぶってボーッと考え事をしました。
いろんな思考が湧いては消え…と、一人きりだったので本当にグルグルと他愛もないことを考えていたのですが、ふっと「魂」について考えた時間がありました。
魂について、なんて哲学っぽく書いていますが…
私という「魂」は、私の人生を終えたら、光のようなもの(完全な形)としてあるべき場所へ戻り、また次の学びややりたい事のために、新たな「生」として命になるんだろうと思っている(希望として採用している)けれど、
私という人生は、もうこれっきりなんだよなぁ。
と思ったら、猛烈に「私をもっと生きなくちゃ!」「私を味わい尽くして、”マミコとして”精一杯生きたい」という気持ちが湧き上がりました。
言葉でうまく表現できないのがもどかしいのですが、魂は、今世の肉体での命を終えてもなくならずに成長していくものであり、『私の魂はこの先も私』だとしても、
マミコという今の人生は、もう一度やり直すことはできないんだ
と思ったら、マミコとしてもっともっと「生を全うしたい」という気持ちになったんです。
自分が愛おしい、本当に慈しんで生きたい、って。
私は自分のことを好きじゃないと思っていたけれど、本当は誰よりも自分のことを好きなんじゃん!と思って、病室のベッドの上でひとりで照れてしまったのだけれど。えへへ。
この時には、ぼんやりと「私は”マミコという一生”を味わいたい」と思っていたんだ!と、大きな収穫があったなぁ~程度で、すぐに他のことを考えてだし、知らぬ間に眠りに落ちていました。
* * *
先日、ビールを飲みつつゆるみながら本を読んだのですが、仁くんとお散歩していた時に、その本の一節がはたと蘇ってきて、ハッとしました。
思い出したのは「抱きしめられたかったあなたへ」(三砂ちづるさん著)の中にあった、三砂さんの息子さんのセリフ。
太陽のような大きな卵子に向かって、たくさんの精子が泳いでいく。その中でたった一つの精子、一番早く卵子に到達した精子だけが、卵子にもぐりこんでいく。他の精子は、もう、卵子と一緒になることはできない…。「けい」というわたしの息子が七歳のときに、そういう映像を見せてもらったそうです。ブラジルの小学校でのことでした。彼は勢い込んで家に帰ってきて言いました。
「ママ、ママ、ぼくになった精子ががんばったから、けいちゃんになったんだよね!もしも、違う精子だったら、けいちゃんじゃなかったんだよね!」
え?と聞き返しましたが、ああ、本当にその通りです。
(引用:抱きしめられたかったあなたへ/見砂ちづるさん著)
胎内記憶を持つ子供や、もっとその前の「お空」での記憶を持つ子どもの話では、私たちは『ママを選んで』やってくるというの耳にします。
自分が選んで、自分としてやってくる。
ということですが、お空の上で両親を見ていて「私の行くべき場所はここだ!」と思って、私になりたくて完全な世界から「行ってきます!」と言って飛び出す。
いつかどこかで見た本かインターネット記事で、体内記憶のある子どもの言葉を借りると『お母さんのお腹に続く滑り台のようなものを滑っていく』と表現されていましたが…
私がお母さんの子供になる!
と自分で決めて、私になりたくて一目散に駆け出していく、というのが、この本の言葉とパッと合わさった感じがしました。
マミコとして、この家の長女として、今回の命を生きる!生きたい!
と思った私が、精子となって一目散に「私になるため」に、太陽のように輝く卵子に向かって必死に全力で向かって行ったんだ。
なぁんだ。
私、私になる前から「私になりたい」って、ものすごく強い意志を持ってこの世界で生を受けたんじゃない!!
私は私になりたくて、頑張ったんです。
私は私を味わいたくて、私を選んだんです。
じゃぁ、もう、充分じゃないの?
私は「何者かになる」「結果を残す」「成功する」という、周りから見ての評価を気にしていた部分がいっぱいあるけれど、そうじゃなくていいんだ。
私は、「何物にもなれない平凡な私」の人生を生きたいから、私なんだよね!!
私になりたいと思って、この世界に来ると決めたんだもの。
私になりたいと思って、無我夢中で泳いで、辿り着いて「私」になったんだもの。
自分が自分を選んで「私」になった時点で、もう本当にすごいことを成し遂げているんだと思えて、ここで入院中のベッドの上で気付いた
マミコとしての一生を、もっともっと味わい尽くしたい
に繋がって、とてもしっくりと腑に落ちました。
「何かを習得しなくては」「知識や理解を得なくては」と、思考して選ぶ行動ではなく、ただ単に『喜び』『心地よさ』『楽しい』を優先した時間から、自分にとってとっても大事なことの発見や気付きが得られるんだなぁ~。
小さな気づきや思い描いたことは、その時点ではまだ、心の土の上に種を蒔いただけの状態かもしれません。
それがふとしたタイミングで届いた情報を肥料として、突然大きな芽を出す。
自分を満たして寛ぎ、のびのびとさせるって大事なんだと改めて実感しました。
* * *
私は、私になれた時点ですごいのだから、もう充分に素晴らしい!
赤ちゃんは自己肯定感が高い状態だと表現されますが、いやもう、それな!!!
「だって、私がちゃんと私になれたんだよ!どやぁ」
ってニコニコして胸を張って、生まれてきたんだもの。
不完全で何者にもなれない葛藤も込みで、私は「私」を味わい生きたいと思ってきたはずだから、どんな思いも感じていいんですよね。
迷ったり、嫉妬したり、情けなかったり、遠回りしたり、成長できない自分を歯がゆく思ったり…。
それらは全部、私を味わい尽くすうえでの大事なトッピング。
グリーフケアを学んでいくうちに、ターミナル期のことも学び始めました。
人生の最後に向かって行く過程は、だんだんと赤ちゃん時の状態に戻っていく、と表現されていました。
赤ちゃんが生まれてから成長していく過程を、逆再生するイメージです。
一生を生き抜いた後は、生まれてきた時を思い出すようにして、また魂の行く場所へ戻っていくのかもしれません。
色んな体験を通して、すでに十分なはずの自分に「これが足りない」「あれもできたらいいのに」と、欠けている部分を感じてダメ出ししたりする時間を経験して味わい、人生の最終章では「あぁ、私は私であって良かったんだ」を思い出していくのかなぁ?
その時になってみないと分からないけれど、生れてきた時の「私になれた時点ですごい!もう充分に素晴らしい!」を、私が最後に呼吸を吐き出す時に微笑んで感じられる未来だったらいいなぁ。
なぁんて、私は私になれたことでもう十分なんだ!と気付けたとはいえ、また流されたりゆらいだりして、隣の芝は青く見えるし、隣の花は赤く見えるし、ないものねだりをして迷うこともいっぱいあるでしょう。
だって、それが「私」なんだからしょうがないんだもの。
ただ、気づけたということは「立ち戻れる」ということでもあるので、揺れたり葛藤したりしつつも、私は私になりたくて全力で駆けてきたんだ、と思えたらまた仕切り直して行けると思っています。
私たちは、はじめに自分になるために全力で駆け抜けてきたんだもの。
それって、本当に素敵なことですね!
ではでは、今週もお互いに素敵な一週間でありますように。