無力な私でごめんなさい。私は非力だから、強くなろうと思って頑張ったんだよ。
先日、夢が叶って「小川正美ちゃん」に古代文字で『仁・銀』という書を書いてもらった話をブログに書きましたが、書を送ってくれた梱包の奥にメッセージカードが隠れているのに気付かず、資源ごみの日に袋をたたんでまとめる前に中を見たら
世界は優しい
という素敵なメッセージカードを発見しました!
袋を開き直さなかったら、カードを送ってもらった事すら気付かずに、暖かい思いをゴミの日に出してしまうところでしたから、普段はチェックしないのにゴミを出す前に袋を開いたのは、この中に隠れていたカードが「大事なものだから見つけてーー」と訴えてくれたのかな??なんて思っています。
カードの言葉通り、今、私が住んでいる世界はとても優しい世界です。
前は自分に厳しく、どちらかというと過酷な世界を自分で選んで住んでいました。
いわゆる「優しい世界・愛されていい世界」へ、ギンちゃんと仁くんを抱っこしてお引越ししてきた、という感じです。
変わろうと思えば人って変われるんですよね。
うーん、変わるというか「自分に戻る」というのが正しい表現なのかな??
表現はあれこれあると思うのですが、私はこの数年で随分と楽に自分を生きることが許可できるようになりました。
遠回りをして何度もつまづきながらですが、やっと自分を受け入れて「自己肯定する」事が少しずつ出来るようになってきて、今は私は私の事をとても信頼しています。
ダメなところもあるし、弱さも情けなさもあるし、優柔不断な私だけれど、それでも私は私と生きていく!と腹が括れたのはとても嬉しい事です。
そして、私は私に優しくしたいと思い続けています。
今までうんと過酷な場所に置いてしまったんだもの!
これからは今まで体験したことがない「優しい世界」で私が幸せになって欲しいと、誰よりも願っています。
自分が目にしている現実は自分の内側が投影されている(映し出されている)ものだとか、世界は自分が創るという言葉がありますが、確かに自分を攻撃して否定していた時は周りの人からも受け入れてもらえずに、とても傷付くやり方で泣くことも多々ありました。
それに、自分で何とかしないと助けてなんてもらえないと思い込んでいたので、バリバリに自立してあれこれ背負い込み、はたから見ても「つぶれそうじゃない??」という状態であっても
全然大丈夫なんで!!!
という感じで頼る事ができなかったので、当然ですがいっぱいいっぱいの日々を生きていました。
挙句、誰も私を助けてくれない…と泣き言や逆恨みまでする始末。
いやねぇ、助けさせなかったのは私なのに、ね。
私が優しい世界ではなく「厳しく悲しい世界」にいたのは、いくつか理由がありますが
●自己肯定ではなく自己否定・自己嫌悪していたから
●存在することそのものに罪悪感を感じていたから
●愛されてはいけないと呪いをかけていたから
●傷を隠して自立し続けたから
というのがとても大きいのだと思っています。
全部は切り離せずにつながっていますし、細かいものを洗い出せば他にも要因はあるのですが、特にこの4つを癒した結果、優しい世界へ引っ越しすることが出来たと思っています。
私は大きな罪悪感を持って生きていたのですが、そのことに関しては過去にこのような記事を書いています。
大きな罪悪感に気付いてからは「それは無実だからもう大丈夫だよ」と自分に届けてあげるように意識していますが、罪悪感はなくすことのできない感情で、何かと私に今でもちょっかいを出してきます。
今年に入ってから様々な面で「これって自分を罰しているなぁ」と感じることがあり、改めて自分の罪悪感を見つめ直してみたら<>(辛いのであんまり深くまでは掘ってはいませんが…)、子供時代の自分も、結婚していた時の自分も、仕事で苦しんでいる自分も
ごめんなさい。
ごめんなさい。
無力な私で、ごめんなさい。
と言っている自分がいる事に気付きました。
私は自分の弱さや「何もできない力のなさ」に罪悪感を持っているんですね、きっと。
だから、自分に力をつけたくて自立したんです。
強くなって、愛する人たちを助けたかった、力になりたかったんです。
それはやっぱり、愛なんですよね。
一番大きな罪悪感として自分が自覚しているのは、お母さんと神様に対する罪の意識です。
お母さんが信仰している大事な宗教の教えに馴染めなかった自分、終末思想があり滅びが来るその時に私を助けたいと思ってくれて熱心に教えてくれる母の思いを考えると、その愛に応えられない自分が苦しかったし、今もまだ考えると鼻の奥がツンとします。
神様の教えに馴染めなくて、ごめんなさい。
お母さんの差し伸べてくれている手を離してしまって、ごめんなさい。
期待に応えられなくて、本当にごめんなさい。
私は宗教の教えを心から信じることが出来なかったのですが、子どもなので教会の中に留まるしかなかったのですが、常に自分が裏切り者で反逆者のような気持ちで心がチクチクしていました。
大人になった今であれば、そこから離れる事が出来ても、子どもの時には離れる事も出来ずに、神様の終末の裁きの日に
お前は私の事を信じていなかった。
ずっと仲間やお母さんを裏切り付づけた。
だから助けられない。
と裁かれて、私の大好きな人たちの前でふるい落とされてガッカリさせてしまうんだ…と考えるだけで震えていました。
逃げることが出来なかった私は、そこで決めました。
最後の最後に「罪が暴かれて軽蔑されてもいいから、最後の最後までお母さんや妹たちの力になりたい。だから強くなりたい。」と。
子供の決意なので、すごく馬鹿げけていますが「息を止める練習」をしたり、指に力があれば崖に落ちてもそれを助けられるのではないか?と指先の筋トレのようなことをしたり(おかげで私はかなり握力があります)、水の中に手や足を入れても我慢できるようにしなくては!と洗面器に水を張って手足をつけて熱を出したり…という事を「すごくマジメに、懸命に」努力して、強くなって力をつけたいと努力しました。
子供なりに懸命に努力しても、子どもはやっぱり非力です。
強くなれない自分を責め、同時にやれることをどんどん増やさなくては!と勝手に自立の道を歩みだし、いい感じに自分をこじらせました。
大人になって大好きな人と結婚して、この人を幸せにしたい!この人とずっと幸せでいたい!と思い、またもや頼まれていないのに
私はあなたを助けたい。
私はあなたの役に立ちたい。
と「強くなりたい」意欲が再燃し、彼の愛を受け取る事をせずに独りよがりな愛情を送り続け、助けさせずに、彼を悲しませ続けました。(← 今だから言えますが、本当に大事だったから愛したかったんですよね。)
結局私は、ものすごく大切で大好きな人から手を解かれました。
数年間執着し、彼の手を何とかつなぎ直せないかと奮闘してもがきました。
でも、結局私は彼の手をもう一度握ることが出来ませんでした。
悩み続け、彼に振り向いて欲しくて懸命だった時に私が思っていたのは
何にもできなくて、ごめんなさい。
大切な家族を、愛する人を守れなくて、ごめんなさい。
私はやっぱりとても非力で、なんにもできなくて、ごめんなさい。
というような思いでした。
ごめんなさい、許して欲しいです。
と、ずっとずっと愛する人たちに許しを乞い続けていました。
弱さを嫌って、強くなろうとしていましたが、今はそんな私の事を「それが私だしねー。罪悪感あるよねぇ。しんどいねぇ。」と受け入れてあげられるようになりました。
そして、「弱い私でいいよ!強くなれなくてもいいよ!もう、頑張り続けなくていいよ!」と言ってあげれるようになり、罪深い非力な私でも「愛されていいし幸せになっていいよ」と言えるようになったことが、何よりも自分を楽にしてくれています。
仕事に関しても、期待されている業務が自分には負担であるがゆえに「期待に応えられなくてごめんなさい」が強いのだとも気付きましたし(気付いただけでまだここはチクチクしていますが、気付けた事は大きな事です!)、罪悪感は本当にちょっとしたことでブワーーッと出てくるものなんですよね。
* * *
私は自分の中にある罪悪感がなくなってはいません。
多分、生涯この罪の意識は根を残して時々自分を刺激するでしょう。
なくせないものであれば、持ち続けて付き合い続けるしかないのですから、少しでも上手に付き合ってく方法をこれから探していこうと思っています。
自分を否定せずに受け入れることが出来るようになったからこそ、罪悪感とも共に生きていっていいし、まぁ、無理しない程度に罪の意識をなくしていけたらいいよね~。一緒にやっていこうね。と言えるようになりました。
私はまだ、罪を背負っているけれど、それでもちゃんと【優しい世界】に引っ越せました。
だから、あなたもきっと大丈夫です。
根拠はないけれど、私が大丈夫だったんだもん!
無力で罪深い私でも、自分を受け入れて共存し、自分に優しくしていいと言えるようになったんですから、きっときっと、あなたも大丈夫です。
罪悪感は「期待に応えたい」とか「大事な人を笑顔にしたい」「愛したい」「与えたい」「助けたい」という
愛が根っ子
なんだと、改めて自分の「ごめんなさい」の行方を見直してみて気付きました。
厄介で重たくて苦しい「罪悪感」ではありますが、それは愛に比例するんだ!って胸を張っていいんですもんね。
なんか支離滅裂ですが、もっともっと優しい世界の中に溶け込めるように、その優しい世界で受け取っている優しさを他の人にも循環させて届けられる私で在れるように、自分をこれからも大事に愛して行こうと思います。