週末の「痛み」と、言葉の採用基準を変えてみてもいいんじゃない?という話
ちょっと前に直売所で「甘いのはこれだよ!」と、生産者さんが選んでくれたシャインマスカットを買ったのですが、3房も入っていて1,000円という破格のお値段で、少しずつ食べていましたが冷蔵庫の中だとシナッとしてきたので、慌てて贅沢食いをしました。おほほ。
シャインマスカットは毎年すごく楽しみにしてはいるものの、お値段がお高いのでそんなに頻繁には買えない…はずが、今年は豊作だったのか、はたまた運よくリーズナブルな売り場に出会えたこともあってか、想像以上にたくさん食べることができました。
全部で8房くらいは食べたでしょうか…
そろそろ終わりの頃だと思うので、お店でも最盛期ほど見かけなくなってきましたが、また来年ももたくさん食べれますように。
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Twitterではつぶやいていたのですが、おととい土曜日の夜に事件(?)がおきました。
いわゆる「神経痛」と呼ばれるような、神経に沿って電気が走るようなビリッとする痛みが時々襲ってきます。
もしかしたら気圧だとかお天気の影響はあるかもしれませんが、痛みはいつだって何の予兆もなくやってくるのですが、大体が「首から頭にかけて」「脇腹から肋骨にかけて」「太ももの前面」というのが私の神経痛が出やすい場所。
ビリビリする痛みから、神経痛だろうとは分かっていたものの、過去にあまりに痛くて病院で診てもらった際に、骨折だとかヘルニアだとかの治療が必要な要因がないので、湿布や市販の痛み止めで対処するように言われました。
それでもどうにもならないほどの神経に沿った疼痛がある場合は、別途検査をして痛み止めの注射を打つ…という選択肢もあると言われたものの、普段はロキソニンテープや痛み止めを使えば楽になっていました。
が…
土曜の夜に突然、太ももを電気製のキリのようなものでグサッと突かれたような痛みで悶絶して目覚め、そこからずっと細かい感覚でビリッとする痛みが繰り返されて眠れませんでした。
1時間くらい様子を見ていたのですが、一向に収まる気配はなく痛みが強かったのでロキソニンテープと痛み止めを飲みましたが、痛みが引かず…。
朝になって痛み止めを飲みなおしたのですが、これでようやく痛みの頻度が少し減った…ような気がするものの、定期的に電気的な痛みが太ももの表面を走り、日曜日はトホホな感じで一日を痛み共に過ごしました。
夕方を待たずして、痛み止めを追加してしばらくたったところで痛みの波がだいぶ和らいでくれて、おかげで昨晩はぐっすり眠れました。
大体いつもは長引いても1日くらいで、しかも痛みが続くと言っても「多少ビリッとする程度」で日常生活に支障をきたすようなことはないのですが、今回のような激痛が1日続くのは初めてでした。
今日もピリピリする痛みが続いているので(激痛ではなく、神経に沿ってピリッとする感じの痛み)、痛み止めを飲んで様子を見ていますが、サトヒーヌから『帯状疱疹のときにそんな痛みがあった』という情報をもらったので、神経痛だと思っていたら帯状疱疹だった…ということもあり得るかもしれないので、様子を見ていて発疹が出てきたりしたらすぐに病院へ行こうと思います。
このままゆっくり痛みの波が引いて、何事もなくただの「強めの神経痛でした」と言えるのが一番いいなぁ。
急な気温の変化で、神経が反応しちゃったのかな??
私は「平凡で思い煩うことない当たり前の日常」を、とっても幸せだなぁと感じているのですが、基本は健康なので『病気や痛みがない』ということが当たり前の状態で暮らせています。
健やかであること、痛みがなく日常が過ごせることって、なんて快適なんでしょう!!
すでに「あるもの」「当たり前のもの」は、なくさないとその大きさには気付けないのが残念だけれど、改めてまた、肉体的な不調のない状態って『恵まれている』『すでに満たされている』ということに気付くことができました。
毎日を生きる中で「痛みがないことが最高!」と感じることはないけれど、こうやって気付けた時にありがたみを噛みしめるのも大切なことですよね。
秋から冬への入り口は、気温の差も激しくキューッと身体に力も入りがちで強ばりますから、みなさんも温かくして身体を労りながら、できるだけ無理のない範囲で力まずに過ごせますように。
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まだ告知…まで準備ができていないのですが、来るべき12月の後半に、ココロノオフィス主催での心理学講座を担当させていただく予定です。
どんな内容を講座としてお届けできるかな?と、ただいま絶賛準備中ですが、どうして自分は自己否定を覚えたんだろう??というのを考えてみたら
・私の行動は「のろま」「ワンテンポ遅い」と言われた
・気が利かない(=それはダメなこと)だと言われた
・頭が悪い私は情けないと思われている
・私は背が高くて色が黒くてかわいくないと言われた(=恥ずかしい存在)
パッと思い浮かんだことを書いただけなのですが、ちゃんと時間を取って掘り返してみたら、きっといろんな体験や言葉を元に、自分はダメな存在だ…という呪いを自分にいっぱいかけてきていると思います。
うまくやろうとしても、思った通りにできなかった。
そんな体験をしたら、自分自身がすごくもどかしい気持ちやふがいない気持ちになっているはずなのに、そこで誰かの不用意な言葉で「役立たず」というようなニュアンスのことを言われてしまったら、自分にとって嫌な体験と言葉が結びついてしまい、私は役に立てないダメな存在なんだ…という思い込みを持つようになってしまいます。
私たちは100%完璧に物事をこなす能力を備えていませんし、タイミングだったりその時の体調によっても、うまくやれないことがあるものです。
だけれど、うまくやれない時にかけられた言葉はすごく重たく自分を押しつぶし、自分がダメな存在なんだという思いを深くしていきます。
そしていつの日か、自分には価値がない・あなたはダメな人、という周りからの言葉『だけ』を採用してしまい、自己否定をどんどん強固なものにしていきます。
不思議なことに、自分がダメだというような否定的な声や視線は、疑いもせずに採用するんですよね。
そしてどんどんと自分を委縮させていきます。
私もあなたもですが…
なんて素直なんでしょう!!
なんて素直に「ダメ」という言葉を信じたんでしょう!!
人はみんな「得意・不得意」があり、いびつな形をしていているため、自分にはできないこともあります。
それは得意な人が才能を活かせるための大事な「欠け」であり、あなた自身にも誰かが不得意とすることを難なくやれる才能があります。
当たり前にやれることって、当たり前すぎてスゴイとは自分で思えないのが難点ですが…
確かにその「欠けている部分」では役に立てないかもしれませんが、そのたった一つの欠けている部分で全てがダメだとみなされるのはおかしいことなのに、なぜか素直に『あなたはダメな人』という言葉を採用してしまいます。
わたしたちは、自分でどの言葉を選ぶかを決めることができます。
あなたにも私にも、ダメな部分があるけれど、同時に「長所」「秀でている素敵なところ」もあって、それをほめてくれる人もいたはずです。
周りにそれを気付いてくれる人がいないなら、自分がそのよい面を見つけてあげて、自分で自分に褒め言葉を与えたったいいんです!!
ダメな存在という呪いの言葉を、疑いもなく採用してきたように、今度は「あなたは素敵な存在だ」という自己肯定の言葉を、疑わずに採用してみてもいいのではないでしょうか?
大人になるまでも、そして大人になってからも、周りからのたくさんの言葉や態度で私たちは自分を傷付けるような心無い言葉に出会い、それをしっかりと採用してしまっています。
簡単にはその言葉の呪いを解くことはできないけれど、少しずつ「私は価値がある」「私は素晴らしい」という言葉も集めて、採用していきませんか??
どっちの言葉にも、探せば根拠はあるはずですから。
いきなりには「私は素敵」が採用できなかったとしても、まずは宣言しちゃいましょう。
私はこれから、自分を好きになるための言葉を少しずつ採用しようと思ってるからね!と。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
聖書の一節ですが、言葉って力があります。
呪いの言葉が強力に自分を虐める力を持つのは、繰り返しくりかえし、その言葉を採用してきたからです。
それと同じように、最初は響くことがなくとも「自分のすばらしさ」を認める言葉を繰り返し自分に届けていくことで、自己肯定の種を自分に蒔いてゆっくりと育てていくことだってできます。
呪いの自己否定ワードを「素直に」採用できたんだもの!!
ほほえましく喜ばしい自己肯定ワードも「素直に」採用していいんだよ!と、自分に小さく伝えてあげられますように。