触れる、愛することができることがどれだけ素敵で尊いかを朝から考えた話
夏から秋を飛び越えて一気に冬のような気温でしたが、ビックリな寒さも少し和らいで、今日からはまた秋に戻ったような爽やかな気温の朝です。
仁くんは呼吸器に病気があり、暑さが大の苦手。
夏場はエアコンと扇風機を使って涼を取っていて、寒い方が元気に過ごせる…のですが、寒いと寒いで鼻をグスグスさせていて、ほんとに手がかかるんだからぁ~♡
大好きな命って、手がかかろうがそれすら愛おしいんですよね。
昨日は急な寒さで冬の装備になっていない我が家だったので、夏に見つけてかわいいと一目ぼれしてネットショッピングで買っておいた「動物柄のつなぎ」を取り出してきて着せました。
むふふふふふ。
かわいい×カワイイで、かわいいが∞になって、もう…(親バカ)
ギンちゃんは神経が細やかで繊細、季節変わりやギンちゃんにとってのストレスや不安が重なると尻尾を過剰グルーミングする自傷行為をします。
甘え下手で抱っこも苦手なのに、でも甘えたくて私が寝ると片足を抱きかかえるようにくっついてみたり。
私にも弱さや欠点があるように、2魂にもそれぞれに”個性的な要素”はあって、でももうね、なんかそういうこと全部が愛おしく思えるんです。
愛するってそういうことなのかもしれませんね。
欠けている、ダメだという部分も全部全部、大事なあなただとすべてを包んでギュッとしたくなる、そんな気持ちを持てる命に出会えるって、しみじみと幸せだなぁ~と朝から謎の涙を流したおまみーぬです。
* * *
というのもですね、昨日はココロノマルシェでお返事を書く際に、数年前の自分のことを思い出したことが引き金になり、大好きだった元・旦那さんの夢を見ました。
直接会ったことはない”イメージ上”の奥さんと子供も一緒に海にいて、なぜか私もその近くでひとりで海に入っていました。
お互いの存在に気付き、なんとなく気まずそうに会釈し、なんとなく近くまで言って話をするのですが、話せば話すほどすごく寂しい気持ちになってきて私が海から上がって帰ることにすると、ギンちゃんと仁くんに会いにくるという理由で、なぜか彼もいっしょにマンションに帰ってきました。
(夢なので、海から一気に部屋にワープしていました)
数年前まで当たり前だった景色が、そうではなくなってスタートした自分の暮らすマンションで「前は普通に見れた家族の図」が広がることが不思議な感覚で、あぁ、大事なものだったなぁと胸がチクリ。
よく分からない展開のうちに家でお酒を飲みながら近況報告をして、現実の家にはない巨大なベッドに「彼、ギンちゃん、仁くん、私」と並んで寝るのですが、ギンちゃんと仁くんを挟んでいたとしても、手を伸ばせば彼に触れることができるくらいの距離。
そっと背に触れることができたらいいけれど、そうしてはいけないし、そうすることはできないと思ったら、”触れる”という行為がどれだけ愛情に縁どられたものなのかをヒシヒシと感じました。
どんなに好きだったとしても、触れることは叶わない。
それってすごく悲しくて寂しいなぁ、って。
朝、彼が帰るのを玄関で見送る際に、私が彼の背中に向かって投げた言葉は
ありがとう。
これからは、友達として、またいつか会えたらいいね。
というものでした。
人生の中で、大好きな人と共に過ごせた時間があったことは、やっぱりよかったなぁと思います。
その分、壊れてしまった時には途方に暮れたし、嫌いになって別れた訳ではないし、寂しい気持ちがゼロになっているわけでもないんだろうなぁ。
でも、愛することができてよかった。
手をつないだり、不安な夜にその背に手や頬を触れて安心することができて、本当によかった。
あなたと共に生きれて、よかった。
夢から覚めてしばらくしても、じわーーっと寂しさに包まれていて、ベッドの中でしばらく青くなり出した空を見ながら考え事をしていました。
触れるって、すごいんだ、って。
と同時に、そこに”ある”から触れることができるんだ、という当然過ぎることにも気が付いてハッとしました。
喪失体験での寂しさや苦しさには、もう触れることができないという要因も大きいんだな、って。
喪失の最たるものは死別で、魂のなくなった肉体にはお別れの時間がやってきます。
文字通りに「触れる」ことができなくなるって、やっぱりどうしようもなくつらいことです。
私たちの未来に『100%ある』と言えるものはたった一つだけです。
それは、死を迎えるということ。
命は有限で、その長さは分からないけれど、私もいつの日かこの肉体と分かれる日がきます。
だから、生きているってすごく素敵な事で、生きている中で「愛すること」ができるって本当に本当に素晴らしいな…と、朝からひとり哲学みたいになって震えました。(どんだけぇ~ By IKKOさん)
夢の中で彼に対して思った寂しさは、愛したいけれどもう以前と同じ形では愛せないということと、愛する(それは恋愛の形ではないけれど)人に触れられないというものでした。
触れたくなるって、きっと愛しているが募ったり溢れたりするからなんですよね。
だから触れられると嬉しくなるし、じんわり満たされるんだろうなぁ。
ギンちゃんや仁くんが、今、私の側にいてくれています。
愛おしい2魂を、愛して触れることができる。
私はしつこいくらい日常的に「大好き」「愛してる」と2魂に声をかけて触れていますが、愛せること・触れられることの価値にこうやってまた気付けたからこそ、もっともっと2魂に触れたい!!と思いました。
* * *
自主開催・ココロノオフィス主催の講座でも、どちらでも私は「触れる」ということを講座の中に織り交ぜています。
自分自身が自分を包むように抱きしめるセルフハグが効果的だったという実体験からなのですが、先日開催した「とことん自分を思いやる講座」でもお伝えしたのですが
手当て、というのは古代からある癒しの手法
なんですよね。
エジプトの壁画にも残されていますし、手当てといって思いつく有名人といえば、触れることで数々の奇跡を行ったとされるイエス・キリストです。
私は子ども時代に母が信仰していたのでキリスト教の教えに触れていたのですが、実はそこまで詳しく教えのことを理解したり覚えてはいません。
めちゃくちゃうろ覚えではありますが、イエスはらい病と呼ばれる重い皮膚の感染症で他の人が触れることをしなかった人に「触れて病気を治した」という話がありました。
病気のその人は、病気が癒されたことが何よりも嬉しかったと思いますが、同時に『触れてもらった』ことも喜びだったのだろうなぁと思ったんです。
また、ヤイロという人の娘がイエスの到着を待たずに亡くなってしまいましたが、亡くなった娘の手を取り触れることで復活させるという奇跡もありました。
文字通り「触れる」ということに、大きな力があるのだろうなぁ。
「手を当てる・手で触れる」事が持つ力って、私たちが思っている以上なのかもしれません。
触れることに関しては、こんな話も読んだことがあります。
脳科学で「女性が痛み刺激」を受けた時の反応を調べる実験がありました。
女性一人で痛み刺激を体感した時と、恋人と手をつなぎながら同じ刺激を受けた時では、彼と手を触れ合わせている時の方が痛みが弱く感じるのだそうです。
刺激の強さは一緒でも、触れられているだけで違うというのは興味深いですよね。
多分、つないだ手から「安心感」「守られている」というものを女性は感じていたのかもしれませんが、やっぱり「触れる」ことにはとっても大きな力があるんだなぁと思った記憶があります。
いつくしみ深き 友なるイエスは、
われらの弱きを 知れて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも、
祈りにこたえて 慰めたまわん
(引用:讃美歌312番/いつくしみ深き友なるイエスはより)
讃美歌の一節(2番の歌詞)ですが、私たちは自分自身の弱さを「憐れむように」自分の側にいてあげていいんですよね。
悩み、悲しみ、思うようにいかない様々な現実を前に気持ちが大きく沈む時には、神様に救いを求めて祈りを捧げますが、その祈りに応えるようなやり方で、自分が自分を慰めていい。
その一つが、触れるということ。
自分が自分を慈しむように、憐みの気持ち(深い同情の気持ち)を持って自分に暖かく触れることで、じんわりと自分が慰められます。
先に「愛おしいと思うものに触れたくなる」ということを書きましたが、自分のことを触れる際に自分に対してほんのちょっとでいいから愛の視線を向けてあげて、日々頑張っている自分を褒めてあげてください。
何か結果を出したら凄いのではなく、結果に繋がらくとも「努力したこと」「自分なりに前に進もうとしたこと」「葛藤したこと」を知っているのは、他でもない自分自身です。
結果が出なくたって、懸命に頑張った姿を知っていたら、目の前の人に厳しい言葉なんてかけませんよね?
自分に対しても、全く同じです。
あなたがあなたの側にいて、見ていたじゃないですか!!!
いっぱい考えて、いっぱい迷って悩み、そうやって行動したことは、とても誇らしいと思いませんか?
自分に優しく触れることは、自分を愛することのひとつ。
しかもいつだって、どこでだって、お金もかからずにできちゃうなんて、最高ですよね。
上手くいかないところも、欠点もあるし、好きになれずに嫌いだなぁと思っちゃう自分もいるかもしれないけれど、それでもギューーーッと自分を抱きしめて触れてみてください。
イエスが起こした奇跡ではないけれど、触れたその手の感触に心がほぐれて涙が出るかもしれません。不安な気持ちがほんのちょっと和らぐかもしれません。
あなたの手のぬくもりで、あなたを温めてほぐすことができますように。
さて!!!
うザがられても何でも、これから2魂をハグハグ・ナデナデして存分に触れあってこようと思います。
3連休の最初の夜。
心地よく伸びやかな時間を過ごせますように。