当たり前の中には「とんでもない宝物」がいっぱいある ~何でもない今日も特別な日~

物価高で食費高騰中の今、赤いシールが貼られている「おいしいもの」ってありがたいですよね~。
この「赤いシール」に誘惑され、必要ないものを買ってしまい出費がかさむことがないよう、赤い色を見ても興奮しないようにする修行をスーパーで積んでいるところです。
赤に反応するって、私は闘牛か? ← ひとりツッコミ
マタドール・マミコと呼ばれる日も、そう遠くないのかもしれません。えへへ。
ん?
マタドールって「闘牛士」の方ですよね??
赤に興奮して突進していくのは闘牛士ではなく、闘牛の方だから、えーっと…(ここでgoogle先生に「闘牛 牛の方」と質問)
牛のことは「toro(トロ)」と言うのだそう。
ほほう。
ということは、マタドール・マミコ改め、
トロ・マミコ
と呼ばれる日もそう遠くない…
って、あれ?
なんか脱線しまくりーぬで、もはや本題は何だっけ??

「国産ローストビーフ」ってお高いイメージしかないのに、なんと190円。
スーパーで手に取りながら、あまりにリーズナブルで「こ、こ、こ、こりは買うしかないでしょ?」と大興奮したのは言うまでもありません。
そういえば、仁くんもローストビーフが好きだったなぁ~。
大きな塊肉が「広告の品」で大特価の日には、お家で作ったローストビーフを少しだけ大きく切って「スペシャルごはん」にしたり、お誕生日やクリスマスなどのイベントでは、ローストビーフを用意したっけ。
こはるちゃんは、まだビーフを食べたことはなかったので、赤いシールがきっかけで「ローストビーフデビュー」することにしました。
家に帰って来て、早速ローストビーフをカットしてあげようと蓋を開けると…
右側にはソースの袋があり、左側にだけお肉が。
む、むむむ。
なんとお肉は「4枚」。
半額で190円なので、1枚おおよそ50円。
正規のお値段ならば、1枚おおよそ100円?!
おーーっ。
さすが「国産ローストビーフ」だけあって、かなりリッチなお値段に一人でどよめきました。

それぞれ「1枚ずつ」を細かく切って、ギンちゃん・こはるちゃん用に準備。
ギンちゃんは断然お魚派で、ポークには見向きもしませんが、チキンとビーフは割と食べてくれます。
今回も食べるかどうかは分からなかったのですが、美味しそうに1枚ペロリと平らげました。
美味しく食べてくれて、嬉しい!

犬生で始めてビーフを食べたこはるちゃん。
ハグハグ、ハグハグと、とっても美味しそうに噛み締めている姿が愛おしかったーー♡
健やかに美味しいと感じて食べられることって、本当に幸せなことだもんね。
「食べるは生きると密接につながっている」からこそ、旺盛な食欲があることは本当に喜ばしい。
我が家は財閥ではないので、国産ローストビーフは頻繁には食べれないかもしれないけれど、でもまた思いがけずに赤いシールや臨時収入があったら、スペシャルなお肉タイムを楽しもうね!
相変わらず前置きが長くて、こっから本題なの?という感じですが…
イエーース。
この「やりたい放題」な感じが、マミコ・スターーーイル。(ここで決めポーズ)
* * *
突然ですが、朝、目が覚めたときに
WOW、やったー!
生きてるー!!
最高ーー!YEAHーー!
って叫んだことはありますか?
聞いておきながら、私はありません。
体調が悪かったりしたときに、ほんの少しこんな気持ちになることはあっても、こんな風に歓喜して叫ぶことなんてないと思います。
私の朝は、まだ寝ていたいのにアラームの音で起きて、今の季節だと「うう~お布団から出るのが今日初の試練だわ。朝から神様はこんな試練を与えるなんて!!」とかブツクサ言いながら、なんとなく一日が始まっていきます。
でもね、よくよく考えてみると、「当たり前に生きて今日を迎える」ってものすごいことなんですよね。
自分で起きて、自分でトイレに行って、自分でご飯を食べて。
自分の身の回りのことを、自分で行って。
「そんなの当たり前じゃん?!」って思いますか??
私も、ずーっとそう思っていました。
「あなたが今日、当たり前に思って出来ていることはスゴイことなんだよ」って言われても、正直ピンと来ていませんでした。
だって…
当たり前にできちゃうんだもん。
意識すらしないでできちゃうことが「価値がある」とか「才能」とか言われても、「んーー」って感じで。
でもね、災害でライフラインが止まった時のことを思い出したり、想像してみてください。
水道から水が当たり前のように出ること。
ガスが使えてお湯を沸かせること。
電気があること。
普段は「当たり前」過ぎて意識もしていないけれど、失って初めて「うわぁ、なんてありがたかったんだろう」って気づくものですよね。
あなたや私が「いとも簡単にやれてしまうこと」も、実はそれと同じ。
もしも、体に不具合が起きて動けなくなったら?
自分で歩けなくなったら?
誰かの助けがないとご飯が食べられなくなったら?
その時初めて「当たり前に出来ていたことは、実はすごかったんだ…」って驚愕すると思います。
私はグリーフケアを学んでいますが、学びを続ける中でターミナル期についても学びたいと思い、ホスピスの先生が主催している勉強会に参加させてもらったりしています。
その中で、ターミナル期の患者さんが言っていたという言葉にハッとしました。
「自分でトイレに行きたい。それだけでいいんだ。」
私が何も考えずに、当たり前のようにしていることは、人生の最終章を生きる人たちが切望するものでした。
私自身、幾度か全身麻酔での手術でお腹を切った経験がありますが、術後すぐは身動きができず排泄も自分ではできないため、尿カテーテルとおむつを併用していました。
私の場合は術後の経過によって、カテーテルは取れて自分でトイレに行くことができるようになると分かっていましたが、やはり尿バックを交換してもらうときなどは、なんとも言えない複雑な気持ちを感じました。
排泄は、できれば自分で行いたいもの。
それは「尊厳」でもあるから。
自分で食事をとれること。
トイレに行けること。
身の回りのことができること。
どれも全てが当たり前に見えますが、怪我や病気、災害や思いがけない不幸などで、いとも簡単に奪われる可能性があるものです。
そして、失った時にそのかけがえのなさに気付くんですよね。
当たり前過ぎて意識すらしないような事柄は、それがいとも簡単にやれているときには「価値がわからず過小評価してしまいがち」です。
でも本当は、事故にあわなかったことも、食べられたことも、眠れることも、思い煩いなく朗らかに今日が過ぎたことも、葛藤したり悩めることすらも、
全部が全部、「とてつもない価値」がある一日を送れているってこと。
朝起きたときに、天に向かって泣きながら感謝する…なんてことはしなくてもいいけれど(それはそれで素敵だけれどね!)
たまには、
「今日も自分の足で歩けてるな〜」
「自分でご飯食べられて幸せだな〜」
「洗顔や着替えといった身の回りのことも全部一人でやれてる!」
「ひとりでトイレにも行ける!」
って、ちょっとだけ意識してみるのもいいかもしれません。
当たり前だと思えるくらい恵まれているから、本当は「とてつもない価値」がある一日を送っていることが分からなくなっているだけなんですものね。
そして、寝るときまで「生きている」ことへの感謝を感じることもなく、当たり前を享受して一日を終えます。
立ち止まらないと見落としちゃうし、意識しない日の方が圧倒的に多いけれど、でも、これって本当はものすごく幸せなことなんだって、最近ようやく分かってきました。
あなたの「できて当然」は、実はとびきりのお宝なんです。
今日から、たまーに、ほんのちょっとだけ、この「当たり前の宝物」に気付けたらいいですよね。
当たり前にできていることが、実はものすごい宝物だったって気付けたら、なんだか今日がちょっと特別な日に見えてきませんか?
何でもないけれど特別な日だから、赤いシールの国産ローストビーフでお祝いするのも、うん、素敵よね。
私も今日、眠る前に小さく「ありがとう」って言ってみようかな?って思っています。
小声でね。
誰にも聞かれないように、こっそりと。うふふ。
…って、誰にも聞かれないどころか、私、おひとりさまで聞いてくれる人がいないんだったーーー。
Oh,Noooooooo
でも、やっぱり小声で言おうと思います。
囁くように小さく、さり気なく。
ではでは。
明日もまた、当たり前に思える「実はとんでもなく貴重で幸せな一日」が続きますように。
