「自分のために祈る」を実践してみよう!と言いつつも、「大切な人のことを祈る」になってしまうのも、まぁ、私らしいってことで!
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3日前にはシンシンと雪が積もりましたが、寒波が抜けて日が射してきて、ベランダの雪は跡形もなく溶けて消えました。
さすがに道路や屋根の上などの雪は、まだなくならずにあちこち白い世界が広がっていますが、白い雪に反射する分だけ世界は眩しく明るく光っています。
ベランダに面した大きな窓の片側に植物をまとめて置いているのですが、寒さにはあまり強くないこともあり、カーテンを開けずにおくことで少しだけでも寒さをしのげるようにしています。
なので、大きな窓の半分だけしかカーテンを開けずにいるのですが、窓からポカッと青空が見えると、なんだかそれだけで「むふ」と嬉しい気持ちになります。
新潟の冬は「曇りや雨、ときに雪」という感じで、ぐずついたスッキリしない日がほとんど。
だからいつも、空は重たくグレーがかった悲し気な色をしています。
妹が東京で暮らしているのですが、送られてくる写真は青空が広がっていて、同じ日本でも全然違う!!
新潟の冬も、東京の冬のように青空が広がっていたら気持ちがいいのになぁ。
ないものねだり…ですが、青空が貴重に感じられるからこそ、晴れた日というだけで「やった!」と思えるのだろうし、今日はだから、青空が見れただけでご機嫌にウキウキしています。
青空だけでも嬉しいのに、今日は久しぶりにギンちゃんと仁くんが「キャッキャ」と追いかけっこをして遊んでいる姿を見て、親バカな私はパシャパシャとシャッター連打。
ギンちゃんも仁くんも年齢を重ねて、若かった時のように走り回ることが少なくなりました。
ギンちゃんは加齢による関節炎の痛みもあり、動くときにためらう姿を見せることも多かったのですが、少し前に登場した「ソレンシア」という痛み止めの注射が効いてくれて、大分動きがスムーズになりました。
さらに!
仁くんの呼吸器(軟骨)のサポートとしてコラーゲンサプリをご飯に混ぜるようにしたのですが、ギンちゃんにも混ぜていたら…
関節炎になんだかいい感じで効いている
ようで、そろそろ注射を打ちに行かなくちゃいけない時期なのですが、痛そうなそぶりを見せずに追いかけっこをしているではありませんか!!

ドタバタと音をさせながら、走りまわる2魂を見ながらおこたに入ってお茶を飲む至福のひととき。
サプリが効いて、痛みが少なくなって動けているのが嬉しいね。
仁くんも色々と病を抱えながらも、今のところは比較的うまく病気と共存することができているのがありがたい。
はしゃいで走り回ると、ゼェゼェして咳き込んでしまうけれど、ほど良い時間ならこうやって遊んでいられるもんね!
何でもないような日常の一コマではありますが、私には嬉しいが詰まった幸せな時間。
これからもこんな「幸せ」が幾度だって訪れてくれますように。
* * *
少し前に、西加奈子さんの「くもをさがす」を読みました。
去年、私が「境界悪性卵巣腫瘍(低悪性度のがん)」だろうという診断を受け、手術を受けて生研の結果待ちをしている間に、読もうと思って購入したものの、すぐには読まずに寝かせておいた本。
「くもをさがす」は、西さんが乳がんだと診断されてから手術・治療を続けている間に書かれたノンフィクション。
とはいえ、単純な「闘病記」という感じではなく、西さんの心の変化や周りの人の暖かさ、自分を大切にするとは何か?というようなことに向き合い続ける姿が描かれていて、いろんな言葉が刺さってくる1冊でした。
何度か読み返し、その度にハッとする言葉や心が揺れる箇所に出会うのですが、その中のひとつに「祈り」の記述があります。
「お母さんには、祈ることしか出来ひんから。」
それは私が、望んでいることでもあった。私は母に、祈って欲しかった。私は彼女の祈りの強さを信じていた。
(引用:くもをさがす/西加奈子さん著・河出書房新社)
西さんが乳がんだと分かったのは、丁度コロナ禍の真っ最中。
しかも西さんはカナダで暮らしていて、お母さんは娘ががんだと告げられても、側に来ることができない状況。
そんな中で、「祈ることしかできない」と伝えるお母さんに対して、西さんは「祈って欲しかった」と思っているという一節なのですが、本当にすごく胸に来るものがありました。
愛する人のために、愛する命のために、できることなら役に立ちたい。
変わってあげたいとすら思うくらいに、相手のために自分を差し出したくなることだってあります。
でも、変わることはできないし、時には自分が思うような形で相手の力になることができないことがあります。
そんな時に、自分にできることとして私も同じように「祈ることしかできない」けれど、逆の立場になったとしたら、私も西さんと同じように「祈って欲しい」「祈ってくれることが嬉しい」と感じるでしょう。
いや、実際に私が手術を受ける時も、仁くんの手術のときにも、私のことを思ってくれる人たちから「祈っているからね」「祈ってるから大丈夫だよ」と言う言葉に、どれだけ救われたか、どれだけ暖かい気持ちと安心感をもらったか。
祈ってもらえる、って嬉しいことです。
誰かのために祈りを捧げられることも。
だって、大切な命がある、ってことでですものね。
祈りについて思いを馳せていたときに、ふと思ったんです。
「誰かのために祈る」はあるけれど、私は「私のために祈る」ことを蔑ろにしていないかな
って。
私の幸せを、私が願い、祈ってあげているだろうか?
私の健やかさを、心の平安を、私が私のために祈っているだろうか?
私がより豊かに、より大きな愛に包まれることを、願って楽しみにしてあげれているだろうか?
たとえば神社や教会で「神様に祈る機会」があるときには、自分の叶えたい願いであったり、日々の感謝を伝えることはあるけれど、何気ないときに大切な人の幸せや健やかさを祈るようにして自分のために祈ることをしていないかも…。
あらあら。
私がまだ手をつけていない部分で、自分を愛するやり方がいっぱいありそうね!(ニッコリ)
そうと決まれば、善は急げっていうじゃなぁ~い?
夜、眠りにつく前にベッドの中で目を閉じて深呼吸した後、自分のために祈ってみました。
親愛なる神様。
今日は私のために祈りを捧げます。
どうぞ、私のための祈りを受け取ってください。
そして私が望んでいるもの(パートナーシップとか、自分のスピードで働くこととか、その他諸々)について、祝福してもらえるように!と強欲全開に甘えて(?)みたり。
健康で大きな悩みがなく「あぁ~疲れた~」と一日を終えられることへの感謝を伝えてみたり、とりとめのないけれど気付きを聞いてもらったり…としているうちに、
ギンちゃんと仁くんが、今日と同じように元気な明日を過ごせますように
と祈り始めたあたりから、だんだんと横に逸れて行き、私の大切な人たちのことを思い祈り出しました。
あ、あれれ?
いつのまにか脱線して、自分の周りの人のことを祈ってる!!
なんだかなぁ~と苦笑いしながらも、心はじんわりと温かい気持ちで包まれていました。
自分のことだけではなく、祈りたいと思える命が私の周りにはたくさんあることの幸せ。
私だけがニコニコしていられることが幸せではなく、「大切な人の健やかさ」「大切な人が幸せであること」が私の幸せには必須なんです。
だから、誰かのために祈っているときって、周り回って自分のための祈りでもあるのかもしれないなぁ~。
はっ!
だから、大切な人のことを祈った後って、自分の心もふっくらするのか!!
私は愛されたいと願っているし、大切にされたら嬉しいと感じます。
でも、それと同じくらい
私が愛したいし、大切にしたい
と言う気持ちも同じくらい持っていて、片っぽだけじゃダメなんです。
だって、私、ゴーヨクだから!!(ドヤ顔)
私だけが満たされるばかりでは、きっと足りない。
私が満たされて、私の愛する人たちも満たされて欲しい。
私を愛してくれるように、私も愛したい。
だから、自分のために祈りながら、自分のことだけではなく愛する人たちのために祈る自分でいいじゃん!って、ね。
それが、マミコ・スターーーイル!なんですものね。
っていうかぁ~ ← ギャル降臨
自分がそうしたいから「人のことを祈る」わけで、それは周り回って自分がふっくらできる=自分を喜ばせる自分のための祈り、ってコトじゃね??
なんにせよ、自分をもっと愛したいと思って「気付いたからやってみた」というだけで、ハナマルだものね。
自分のため…のはずが、自分のことはちょびっとで他の人のことの方が大きかったとしても、そんな私のことを「あらあら」って笑ってあげて、愛してあげる。
どんな私でも、私が私を優しく見てあげる。
新しい試みとして「自分のために祈る」を始めてみて、またいろんな気付きがあったよ!という話でした。
(まとめ方が分からなくなり、強引に終わりに持ってゆく手法)
ではでは。
建国記念日の祝日の夜を、朗らかにお過ごしください♡