なぜ「逃げる」という事をダメだと感じているのか?
デニッシュパン生地の中にずっしり重たく詰まっていたのは「チャーハン」。
兼ねてから気になっていた『チャーパン』なる「炭水化物×炭水化物de絶対太れるパン」を買ってみました。
結論:それぞれ別で食べたほうが美味しい
さて、今日は私が『人間関係で悩んだ事』を書きたいと思います。
私は昔から「威圧的」「物事を押し付ける人」「人の感情を無視する人」「気持ちを理解しようとしない人」(ジャイアン的に強い人)が苦手です。
学校でのクラス替えや新しい環境下で「私と合わない人」が近付いてきてくれたとしても、しばらくするとお互いにとって丁度良い距離感を図り、その距離を保つようにしてきました。
幸い、職場でも学校(お教室等を含む)でも、極端に苦手な人というのはおらず、人間関係で悩む事は多い方ではありません。
ですが少し前に出会った人で「なんとなく怖い…ちょっと苦手だなぁ」という人がいて、その人の強い言葉に悲しくなって涙が込み上げた事もありました。(本人の前では泣いていません。会話を終えて家で号泣しました。)
この瞬間、私はその人に対してのシャッターを下ろしました。(何しろ自立なもので…)
とはいえ、拒絶したり嫌悪したりすることはなく「ちょっと離れた距離感」をキープしていたのですが、その人の「威圧的で思いやりのない言動」を前にして、どうしても私の心が
もう限界だ…
と感じてしまい、その人から『逃げる』と決めました。
つまり、その人から離れる・距離を完全に広げて極力近寄らないという事にしました。
逃げるときは全力で!!
と頭では分かっているし、人にも言います。
が、逃げると決めて距離をそーっと取り始めた途端、私の中に様々な感情が沸き上がってきて、数日間ジタバタしました。
アホに見えるような日々の中で、もがいていた日もあるんですよ~。
ほら、白鳥も優雅に水に浮いているように見せて、水面下でバタバタしてるっていうじゃない??(← ですよね??)
数年前にも1度「仲良くしたいと言ってくれるけれど、その人と一緒にいると自分が疲弊する」という事がありました。
人間関係では問題がなく生きてきたので、この時は本当にヘトヘトでした。
そこで『逃げる事の大切さ』を学べたのですが、また誰かにシャッターを下ろして背を向けて逃げる日が来るなんて…と、逃げようと決めた私に襲ってきたのが
大きな罪悪感でした。
心も頭も「しんどいから離れることは悪い事じゃないよ」と言っているのに、なぜか鉛を飲み込んだみたいに心が重たくてモヤモヤしたものが取れません。
逃げるという事は自分を守る事だと自分が決めたのに、この思いはなんだろう??と、自分に丁寧に向き合ってみようと思いノートを広げました。
逃げる事をダメだ!と感じるのはなぜか?
・見捨てているように感じる
・私はいつからそんなにエラくなったの?(← 自分を責める声)
・我慢して合わせるべきなのでは?(← 平和にいるべきという私の観念)
これから見えたのは『離れる事』に罪の意識を感じると同時に、悲しい気持ちであるという事。
悲しい気持ちを抱えている自分を見つけた後で、もっと掘り下げていきます。
離れたい理由は?
・1日中その人の事を考えてしまって頭をいっぱいにしたくない
・どんなにモヤモヤしてもその人の気持ちはその人にしか分からない
・「2:6:2の法則」だ!!
離れたって私の事を嫌いな2のグループが1人増えるだけじゃん?!
・逃げればそもそもその人と関わらないんだから、別にその人に嫌われてもよくなくなくなぁ~い?
ここで見えてきたのは、自分軸よりも他人軸で嫌われることへの怖れでした。
★2:6:2の法則とは
・2割の人 … 私の事を好意的に思っている
・6割の人 … 私に関心がない
・2割の人 … 私の事を嫌い
なんでその人が苦手・合わないって感じたの?
・見下したような切り捨てる口調が怖い
・相手の事を分かろうとしない事が苦手
・怒られている気持ちになる(声・態度)
・自分の正義を押し付けるのが苦しい
・逃げ場を塞がれるのは嫌
・そもそも私に協調性がないから合わせきれない
・勝手に「責められている」と受け取っている…
あ…見えてきた!!
合わない人がいるのは仕方のない事なのに、合わせなくてはいけないという観念(ルール)に縛られていた…けれど、その動機は無価値感と罪悪感なんだ。
責められるのが嫌だから、無理して与えよう・理解しようとしていて、楽しくなかった。(← ずっと不満を持っていたのを見ないふりをしていた)
辛いよ・無理だよ・嫌だよという自分の気持ちを自分が認めて表現した事に対して「責められている感じ」「後悔」「悲しい」と泣いているのはなぜ???
自分には価値がないから(上からの口調に対して委縮し、そう感じてしまう)出来ることはやらなくてはいけないし、我慢しなくちゃいけないと犠牲をしていたんだ…
こんな私でゴメンナサイ
って、私はその人に対して感じていたから、私が離れるなんて考えたりしてゴメンナサイ…って罪の意識を持っていたんだ!!!
じゃあ、私になんて言ってあげたい?
「こんな私」って感じる痛みを我慢させちゃっていたね。ごめんね。
私なりにベストを尽くして「逃げる」と決めるまで精一杯歩み寄れるか努力してみたんだから、もう十分頑張ってくれたよね。ありがとう。
さぁ、この場を離れよう!逃げていい!!ドロンじゃ!!
あなたがやれる最善を尽くしたなら、心配したって事態は良くならない。
(ウォルト・ディズニー)
「一緒にいるべきではない人」は、人生に確実にいる。
一緒にいて自分がしんどかったり損ばかりしたり、後味の悪い人には近づかないに限る。近づかなければ係わらずに済む。たとえその人が肉親であれ、近しい人であれ、心の距離感・態度の距離感をとるのだ。
(小池 一夫さん談)
他に思い当たることはない?
苦手だと思った人と一緒に居ると、私がこの人だったら苦しいだろうな…なぜこんなに虚勢を張るんだろう?何を抱えているんだろう?と相手の状況に対して想像力を働かせて感じて寄り添う「思いやり(別名:おせっかい)」が働いて疲れてしまう。
つまり、長所が短所として働いている状態なんだ!!
ストレングスファインダーで「共感性」が1位で高いという事が長所でもあり短所で私を苦しめる(勝手に感じて背負い過ぎる)のだから、相手を感じ過ぎていると思ったのなら、自分を守るためにも逃げていい。
怖いテレビ・嫌なニュースを見ないのと一緒だよ!!
私が逃げる事は相手のためにもなる事はないのかな?
私が相手に振り回されていたという事は、私も相手を振りまわす要素があるということ。(投影ですね)
我慢したり犠牲している時は不満を募らせているし、緊張しているのは相手に伝わるもの。
無理して自分を押し殺しても、相手には必ずそれが届いてしまうから『私が相手を振り回す存在になってしまう』のならば、逃げて距離を置く事は思いやりの一つ。
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ここまで書いてみたら、感じていた罪悪感のような重しが抜けていきました。
いい!
逃げていい!!
GO・ドロン!!
自分の中に「なんか引っかかる」と感じる事があるたびに、自分の感情を確認してあげて掘り下げるって大事です。
そして手放したと思っても何度も「まだあるよ!」と出てくる観念を、もう私にはいらなくなったよ、ありがとう、と手放し続ける事が大事なんですものね。
そして、自分がこの観念を手放して楽になるだけではなく、そうする事で「相手に対する思いやり」「相手に感謝が出来るなら感謝し、そうじゃないならどんな利益があるか?」を考えて手放すと、すごく自分が楽になれる事を体験しました。(いわゆる自分なりに自分を納得させる技。強引な自己肯定ではありますが…てへへ。)
相手の事も自分の事も、許すというのが何より大事…
とはいえ、なかなか「許します」の心境って難しいんですよね~。
そんな時は…
私は鬼畜生になる!!(← 海賊王になる!の熱量でお読みください。)
荒れ狂う冬の日本海のザッパーンという波を背にして、鬼畜生道を叫びましょう。
いいんです。どんな私も私なんですから。
あ、こんな迷いまくりマ…(省略)な私ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
一緒に鬼畜生ステージを楽しもうぜ!!(← 何目線?)
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