「何があっても嫌いになんてならないよ」って言えることが、私らしい”自己肯定感”なのかもしれない

今日も30度を軽く超えていて、外に出ていたら「首、痛っ!」と言ってしまうくらい短時間でジリジリ焼ける感じに、全く9月感がないのですが、天気予報では来週頃から少しずつ暑さも和らいでいくようですね。
そうそう、昨日は満月の日で、しかも1か月の中で「2回目の満月を見れる」数年に一度の貴重な日。
さらに通常の満月よりも大きく見える「スーパームーン」と重なり、月2回目の満月を「ブルームーン」と呼ぶことから
スーパーブルームーン
という、色々重なってWOW!な満月だったんですよね。
月や星といったものは、お天気に思いっ切り影響されるので、いくら「この日がこんな天体模様ですよ~」と言われていても、当日にならないと空を仰ぎ見れるかは分からないバクチ要素満点なもの。
で、昨日は気持ちよく晴れていて、空を仰ぎ見ようと思っていたのに…
うっかりしていて、見上げ忘れたーーーー。
Oh,Nooooooooooooh!!
という訳で、気を取り直して「だって、次の日なんて『ほぼ満月でしょ?』」という自己都合的な解釈をし、空を仰いでみました。
まん丸のお月さまは、うっすらと雲がかかった空の奥でぼんやりと輝いてましたが、暖かい夏の終わりの夜風を浴びながら、しばしの月光欲。
残念ながら私にはスピ的な能力がないので、
月のエネルギーを感じるわ!
みなぎってきたわ!!
穏やかさに包まれるわ!!
といった、神秘的な体験はできないものの、きっとこぼれているであろうエネルギーを「自分のために受け取ってみよう」という行動をした自分がなんだか愛おしいと思った夜でした。
そして…
スピ的能力はないのに、エナジーチャージし過ぎたのか、さっきからお腹を壊してトイレを行ったり来たり。
月に変わって誰かのお仕置きの『念』でも受け取っちゃったのかしら?
はっ!!
満月の話が長すぎて、冒頭のギンちゃんを置き去りにしているけれど、9月は我が家にとっては「みんながお誕生日を迎える・誕生日月間」でおめでたい一ヶ月。
ギンちゃんと仁くんが、9月16日にお誕生日を迎え、その10日後に2魂を追いかけるようにして私のお誕生日が控えています。
うしし。
お誕生日月間だもの、便乗してあれこれお祝いしなくちゃね!!
* * *
自己肯定感を高めることが出来たら、きっと生きやすくなるし、自分を肯定できる=オールOKで無双状態に生きられるだろう!と思っていた時期があります。
私が根本さんのお弟子さん制度に申し込んだのも、自分を肯定する力をつけるために、自分で自分をカウンセリングして立て直す力を身につけたいと思ったからでした。
今でこそ、自分をどこまでも受け入れることができるようになり、結果として
絶対に自分を否定しない私
が爆誕!というか、少しずつ自分を否定しない自分が板についてきたましたが、じゃぁ「肯定しているのか?」と言われると、自分に対する『積極的な肯定作業』はしていないような気がします。
「肯定」と聞くと、ポジティブでプラスな見方ができるようなイメージがありますが、
今日も歯磨きして、そこが最高にいいよ!
今日も笑顔が魅力的!素敵過ぎる!!
私って存在しているだけで価値があってヤバいよ!
というような感じのことはしていません。
自分を否定せずに「偉いね」「すごいね」と認めてあげる際には、もっと優しい「慈愛の目」を向ける感じで、自分に対して穏やかに、柔らかく微笑みかけるイメージです。
今日も歯磨きしてくれて、おかげで清潔にできているよ。ありがとう。
今日も笑顔でいられて嬉しいね!
私は今日も私なりに努力したり与えたりしていて、素敵だね。
自己肯定感という言葉の通り「肯定するんだ!」とあれこれ試行錯誤していた時には、穏やかさよりももっと「攻め」な感じのことをすることが必要だと思っていました。
でも、私が欲しかったものは、どちらかというと「穏やかで包み込む」感じのもので、積極的な肯定の作業は、合わなかったんです。
だから、必死になって「肯定するぞ!!」とポジティブシンキングに前のめっていた時には、なんかしっくりこなくて、やってもやっても上滑りする感じで、楽になることができませんでした。
私と自己肯定は相性が悪いのかな?
「肯定」という作業ではなく、その前段階のようなイメージの「受け入れる」をまずはやってみる方がよさそうだよね…。
と、自分の中では「一つ下の階段」に見えていた自己受容をひたすらに実践してみたら、
どんな私であっても受け入れる=否定しない私
に少しずつ変化していけました。
積極的な肯定とは違うけれど、どんな私でもいいんだよ、と言える私は、フラットな肯定力を身につけることができていました。
うーん、うまく表現できなくて分かりにくいと思うのですが、
●自己肯定=パリピな陽キャ、キラキラ所属
●自己受容=ごくごく平凡、地味所属
みたいなイメージ??
あくまでイメージですよ、イメージ。
でも、自分がどのタイプかな?と思ったら、ごくごく平凡で地味な方が、私っぽいというか、私が落ち着く感じがあるんですよね。
積極的ではないけれど、暖かいまなざしで肯定できる、地味で手のひらサイズの肯定の仕方が、うん、私に合っていたんです。
おかげで今の私は、安心して生きることが出来て、ささやかさを愛おしんで幸せに目を細めながら「自分サイズ」で生きる喜びを感じられるようになりました。
あんなにあれこれ「こうあるべき!」と肯定するためにエネルギーを注いできたけれど、私にとっての「自己肯定感」ってもしかしたら
何をしても、何もしなくても、何を考えても、全部大丈夫だよ!
大丈夫、大丈夫。私がいるからね。
何をしても、何を思っても、嫌いにならないよ。
って、自分に言ってあげらえることなのかもしれないなぁ~って思ったんです。
というのも、私は自己受容を続ける中で、それでも時折「あっ!ムカつくって感じちゃった。」「ドロドロで嫌な感情を持つ自分がいる」というときに
そう思ってしまう自分がバレたら嫌われちゃうんじゃないか?
自分に優しくしても人にイライラしてるなんて、ダメなんじゃないか?
と、湧き上がる感情にNOを言ってしまいそうなことがあるんです。
罪悪感を感じることだってあるし、モヤモヤするのはイヤだなぁ~って自分の内側にある感情や思考を「イケないこと」のように見てしまうことがあったのだけれど、それって苦しいんですよね。
私の大切な人が、
自分が汚い感情を持つことが苦しい…
こんな自分は嫌われるんじゃないか…
と泣いていたら、私はどんな言葉を大切な人にかけようと思うだろうか?
そう思ったときに出てきた言葉が、先に紹介した言葉たちです。
何を考えてもいいし、どんなあなたであっても私は決して嫌いにならないよ、って。
例えば何かできるからあなたを好きなんじゃないし、何をしてもしなくても、私はあなたのことを好きだから側にいたい、って大切な人に対しては思っちゃいますよね。
それにね、私たちはいいことも悪いことも両方考えちゃうものだし、嫌いな人がいたら「いいーだっ!」て思うのは、愛する自分を守っているから感じる気持ちですもんね。
不快があるから心地よいことが分かるように、イヤな感情があるからこそ穏やかさや心地よい感情を選びたいと思えるんだもの。
改めて出てきた言葉に、自分でじんわりとしました。
何をしても、何を思っても、嫌いにならないよ。
って自分に言ってあげられることが、自己肯定なのかもしれないなって。
醜い感情を持つことを怖れるのも、いい子でいないといけないと頑張るのも、嫌われたくないという恐れがあるから。
嫌われたくないの先にあるものは、愛されていたい、という思いだものね。
私の心の中も・思考も、全て筒抜けで見ている「一番愛して欲しい人」が「どんな私だって嫌わないから、安心して鬼畜生になっていいよ」「悪いこと考えたってドン引かないよ」って言ってくれたら、どれだけ安心できるのでしょう。
絶対に、絶対に、この人に嫌われないんだ!って思えるって、どれだけの安心感を感じられるんでしょう。
何を思っても嫌われない場所って、どれだけの安全基地でしょう。
嫌われると思ったら、なかなか素直に自分の本音なんて言えないけれど、「絶対に嫌われない」って安心出来ていたら、素直に自分の欲望が言えちゃいますもんね。
積極的な肯定ができなくても、自分に合った肯定ができればいいし、一見、肯定に見えないやり方でも自分がホッとできて安心していられるやり方ができれば、それが『自分スタイル』でベストなことなのかもしれません。
あなたはどんな言葉をかけてもらったら、ホッとするのでしょうか?
あなたが欲しい言葉を、あなたが欲しい場所を、ゆっくり少しずつ届けたり作っていけますように。