講座にお申込み・ご興味を持っていただきありがとうございました。御礼とクリスマスに寄せて。
こんばんわー。んわー。んわー。 ← 久しぶりのひとりやまびこ
いよいよ明日、27日(火)20:00~「とことん私に優しくなろう ~自分を分かってあげる愛ある心理学~」(通称:わたやさ)講座なのですが、それを前にした本日18:00を以てお申し込み受付が終了となりました。
ココロノオフィス事務局より、お申し込み終了の連絡を受けたタイミングで、たくさんの方にお申込みいただけていてウルウルしました。
年末の慌ただしくお忙しいタイミングではありますが、講座にお申込みいただきありがとうございました。
アーカイブで見るよ!とお申込みくださった方もいらっしゃると思いますが、お正月休みの間にほんのちょっとでも心が柔らかくなれるような温かい講座にできるように、明日は心を込めて講座をさせていただこうと思います。
明日はどうぞ、よろしくお願いします!!!
今日は嬉しくて「ひとり前祝レモンサワー」をしていますが、明日はきっと皆さんとご一緒出来るのが嬉しくて「打ち上げレモンサワー」しちゃうこと間違いなし…です。
また、気にはなるけれど…とご検討いただいた皆様も、ちょっとだけでも「参加してみようかな?」と思っていただきありがとうございます。
私自身、迷って迷って「あっ!」と申し込み忘れたり、参加したくてもタイミングが合わず…というものがあるので、ちょとでも気にかけていただけていることがありがたいです。
またの機会に、ご興味・ご関心を持っていただける講座やイベントが告知出来ましたら、いつかお会いしましょう♡
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話はいきなり変わり(いつものことです)、昨日はクリスマスでしたね!
私は家でお昼寝をしたり本を読んだり、ノートを整理したりした後で、クリスマスディナー(ほぼスーパーで買ってきたオードブル)をしました。
なんとなくテレビをつけてみたら「世界の果てまでイッテQ!」という番組が特番をやっていて、ちょうど女芸人さんたちが合宿して楽器を練習するところと、金子貴俊さんがシロナガスクジラを探す旅の部分を見ました。
いやー、お酒もホロッと回っていて、テレビを見ながらひとりで声を出して笑い、メチャクチャ満喫しました。
ささやかだけれど、こんなに楽しくていいのかしら??
と、セルフツッコミをしちゃうくらい、マイペースで楽チンで、そして過ごしやすく幸せなクリスマスでした。
来年は、チオビーと一緒にクリスマス♡が出来たらいいなぁ~。むふふ。
毎年「今年が最後のクリぼっち!」と言っていますが、2022年もクリぼっち延長となり、まぁ、それもそれでちゃんと楽しいからいいか?!とご機嫌に夜は更けて行きました。
クリスマスも過ぎてから…なのが、相変わらずのウッカリ具合ではありますが、私は子供時代に母が信仰していたこともありキリスト教の教えの中にいたので、そこから派生したお話をさせていただこうと思います。
クリスマスと言えば、イエス・キリストの誕生日。
(※厳密にはイエスの誕生日は聖書に明言されていません。イエスの死後いくらかの時間を経てから、イエスの誕生を祝う日として制定されました)
イエスと並んで世界中の人がその名を知っている女性と言えば、イエスの母である聖母マリア。
「マリア」というと、多くの人はイエス・キリストの母「聖母マリア」を連想されると思います。このマリアと同じ名を持つ女性が、聖書の中ではイエスに信仰を持ち、弟子として登場しています。
もう一人のマリアとは、マグダラのマリア。
私は子供時代に母がキリスト教を信仰したのに習い、共に聖書の教えを学んでいたのですが、信仰を離れた今、マグダラのマリアは素晴らしい人だなぁと思っています。
マグラダのマリアをご存じない方は、こちらをチェック!
私が子供時代に聖書研究の時間に教わった中では、マグラダのマリアは罪深い女性(娼婦)であったのですが、イエスに会った際に旅で疲れて汚れている足を涙で濡らして自分の髪で拭き、その足に香油を注いだ(この当時は香油はとても高価で、マリアはそれを惜しげもなくイエスに与えています)ということが書かれていました。(ルカ7:36-38)
罪を許された上に奇跡を経験したことで信仰を強め、イエスが死を遂げる時にも復活した際にもその場にいた女性です。(ルカ24:9-10)
マグダラのマリアは罪深い女性であった過去がありましたが、聖人として扱われていました。
私が子供時代に教わっていた内容では、聖母マリアと対比的に登場させられることが多く、娼婦で罪を犯していたマリア…という描かれ方をしつつも、彼女がどれだけ信仰を持っていたのかは、香油をイエスの足にそそぎ、涙でその足を濡らし、自分の髪の毛でそれをぬぐって、旅で疲れて汚れているであろうイエスの足に口づけをしたことからも分かります。
このマリアは聖書の中では数は少なくとも幾度かは登場しています。
そこから考えても、きっとイエスや弟子たちの身の回りのことや生活をサポートするためのお世話をしていた近しい存在だと推察されます。
もちろんそこには、名が聖書に記されたマリア以外にも、信仰を持ち、仕えてきた女性たちがいたはずです。
聖書の中には、彼女たちの奉仕の内容については具体的に描かれることもありませんでしたし、時代や文化などもありますから、彼女たちの仕事は表立つような事ではない”当然の奉仕の姿”だったのかもしれません。
でも、イエスや弟子を「支える者」「奉仕する者」がいたからこそ、数々の奇跡や、神の教えを広く伝えることを成し遂げることができたのではないのでしょうか?
イエスはもちろん素晴らしい方です。
神の子であり奇跡を行える力もありました。
もしかしたら周りからの奉仕がなくとも様々なことが成し遂げられ、周りからの奉仕が必要ないものだったかもしれないけれど…
見えない場所で支えや援助をしてくれる人がいたからこそ、なおのこそ一層、神の教えを伝え歩けたのではないでしょうか?
歴史の登場人物で名が残っているのは、有名な人たちばかりです。
でも、その彼らも全て、支えてくれる人がいて名を残せていまます。
この世界では、目立つ人やお金を稼げる人、何かの功績を残せた人が素晴らしいと賞賛されてしまうけれど、そうじゃない「影の奉仕者」も、同じくらい素敵な存在だと私は思っています。
そしてね…
私は死について学びを深めていて、本当にしみじみと思うのが『死ぬときにはお金も地位も名誉も持ってはいけませんし、それは役にも立たないものだ』ということです。
だからそこに執着しても意味はないんだよなぁ…と思ったら、随分と肩の力が抜けて、自分サイズの持ち物でいいや!と思えるようになれました。
目立つことで何かを成し遂げたり、周りから羨望の眼差しを向けられている人もいるでしょう。
その人はやっぱり華やかで、縁の下の力持ち…ではないですが、そうではなく支える力を持つ目立たない人から見たら羨ましい存在です。
私も、キラキラした存在や分かりやすく華のある素敵な人を見ると、羨ましいと思います。
あんな風に素敵になれたらいいなぁ~って、思っちゃうんですよね!!
けれど、私はきっと「手のひらサイズの幸せ」で心地よい、自分の一歩が小さな目立たない生き方が合っているんです。
いわゆる「名を残す」とか、今どきで言えば「インフルエンス力」のようなものはきっと私にはありません。
でもそれでも、目立たずとも「影の奉仕者」である私にもできることはあるんですもんね。
そして、そんな影の奉仕者は『聖人』と呼ばれる存在にちゃんと混じっているんです。
あなたは大切な存在です。
目立とうが目立つまいが、関係ありません。
大きな宇宙であったり、偉大なる神様であったり、何だっていいのですが、いわゆる『大いなる存在』から見たら、あなたの存在は目立つ人と何の遜色もなく、愛おしく大切な存在です。
私は子供時代に、そう教えられてきましたし、その教えは今でも大切に思えています。
あなたのサイズで、あなたが笑顔であればそれでいい。
クリスマスを少し過ぎてしまいましたが、あなたがあなたに対して優しいまなざしを向けてあげらえる夜でありますように。