やさしい視点を持つ”大人”でありたいと、改めて思った夜のこと
激務が少しだけ落ち着いた時間があったのですが、昨日からまたしばらくは慌ただしい日々に突入しました。
そんな中、仁くんの目の不調があり、昨日は急遽獣医さんを予約して診てもらってきました。
先週末、仁くんの左目が少し充血しているのに気が付き、様子を見ていました。
痒そうにしたりはしていなかったので、目にゴミが入ったりしたかな?と、ソフトサンティアという人口涙液(私が常備している目薬。以前通っていた動物動物病院で、犬にも使って大丈夫と教えてもらいました)で汚れを洗い流して様子を見ていました。
目の充血は少しずつ落ち着いてきたのですが、鼻に近い目の縁が、涙なのか炎症なのか少し赤くなって毛が薄くなっているのが気になり、仕事の時間を調整してもらい動物病院へ。
先生に診てもらうと、「ちょっと目の周りが涙で炎症を起こしてるね~」ということで、何やら小さなリトマス試験紙みたいな紙にお薬をつけたものを仁くんの目につけて検査をすることになたのですが…
やだ!!!
やだーーー!!!
と、先生の指が顔の方に近付くと「ギャン」と一吠え。
「あーっ!仁ちゃん、怒ってるぅーー」と先生は笑いながら手を引っ込め(注:先生はメンズです)、その後少し様子を見て再チャレンジしようとしたのですが、やはり体を固くして仁くんが先生の手の動きをジーッと見ているので
検査できなかったので確定はしていないけれど、目の様子から病状が推測できるので、目薬して様子をみましょう。
多分それで改善すると思いますが、しなかったら仁ちゃんに頑張ってもらって検査ですねー。
ということになりました。
せっかく病院に行ったのにーー。とほほ。
うーん。
まぁ、飲み薬も必要ない感じですし、私が見てもすごくヤバイ…というわけではなく、やっぱり診てもらっておいた方がよさそうさしなぁというレベルなので笑い話ですが、病院で「ヤダ!」をやるのって、小さなお子さんや動物を飼っている人ならば
あるある
ということかもしれませんよねー。
1日3回、仁くんはこの世の終わりみたいに緊張して体を固くしながらも、目薬をちゃんとさせてくれているので、これで落ち着いてくれますように。
仁くんの目薬なのですが、オフロキサシン点眼薬「JG」と書かれていて…
・J … 仁くん
・G … ギンタ
のイニシャルじゃないですかーーー!と、ひとりでニヤニヤしちゃいました。
あ、完全なる親バカです。えへへ。
* * *
昨日は、バタバタと仕事をして獣医さんへ行き、その後また仕事をして、夜は月イチの「ペットグリーフ」の講座に参加でした。
今月は症例検討の会だったので、事前に予習をしておき、事例を元に色んな人の意見を聞いて視点を広げたり(自分では気付けない角度からものごとを見れるのはとっても学びになります!)、はたまた私が見た視点を発表したりと、ひたすら学べる時間。
いきなりですが、失恋というのをちょっとイメージしてみてください。
大好きな恋人の様子がおかしい、なんだか距離を感じる。
そんな時って心がザワザワして不安になったり、この先に別れがあるのではないか?とドキドキしたりしますよね。
そして、どこかで「でも大丈夫!」とかすかな期待を持っていたのに、それが打ち砕かれて別れを告げられてしまったら、その時は身体も心も凍り付くようで、悲しみと現実感のなさに途方に暮れます。
その後はひたすら後悔したり、泣いたり、恋人のよくない面を捻り出して「別れてよかったんだ」と納得しようとしたり…。
しばらくは心に大きな穴があいて、何をしていても力の入らない期間があります。
そこからは、元気になったりまた揺り戻されて泣いたり…を繰り返しながら、少しずつ心が回復して日常を取り戻し、ゆっくりと回復して新しい生活に順応していきます。
「私、失恋したんだよね」
と言われたとしても、失恋の中でも”どんな心持ちの所にいるのか”によって、周りの友達に分かって欲しい事やして欲しい事は違ってきます。
グリーフ(喪失の痛み)も一緒です。
回復の途中にある痛みなのか、まだ鮮血が流れているような傷が出来たての痛みなのか、その時々で「周りの人」がどんなサポートになってあげられるのかは違ってきます。
昨日の症例検討は『衝撃期』と呼ばれる、突然のことで現実に気持ちが追い付かないような状況のことを考える時間でした。
犬・猫、それぞれの事例を考えたのですが、どちらも『ペットの目線』と『家族(人間)の目線』の二つに加えて、『人間のポジション』ということも考えさせられるものでした。
例えば、生まれた時からペットのいる生活をしていたまだ小学生の子どもがいるお母さんであれば、ペットとのお別れの哀しみに加えて、子どもになんと伝えようか?子どものケアはどうしようか?と、自分の痛みに加えて子どものことを思う痛みだって加わります。
子供であれば、きょうだいとの関係であったり親を気遣ったり…と、みんなそれぞれの立場でいろんな感情を抱えているんですよね。
グリーフケアの症例検討は、最終的には「愛」という視点で見ることにはしていますが、ワクワク・キャッキャとするようなものではなく、涙があふれる場面も沢山あります。
昨日の症例は、予習していた段階ですでに泣けてしまったのですが、その事例は突然死してしまった猫ちゃんと小学生の姉妹の話でした。
症例をよく読むと、いつも通りに学校から帰ってきた妹が、いつも通りに妹の机の上にやって来た猫ちゃんを撫でたら、突然ネコちゃんが倒れて机から落ちてしまい、そこから容体が急変してしまいました。
姉妹共々かわいがっていたネコちゃんですし、症例を見る限り、この後も姉妹はどちらも共に猫ちゃんのことで心配でたまらない時間を過ごすのですが、私が気になっていたのは妹の痛みでした。
だって…
因果関係は全くなかったのであっても、自分が愛するネコちゃんに触れたら倒れてしまうなんて、どれ程の哀しみ(自分を責める)だったのでしょう。
家族にしても、責めるつもりはなくても「何かしたの?」と問いただしてしまいますよね。
私が妹さんだったら、きっときっと、自分があの時に撫でたりしなければ…と、全く関連のない事でも自分を責めたと思います。
私が妹さんの立場だったら、悲しみと同時に現場を思い出すだけで意識が遠のくくらいショックで、自分を責めずにはいられないだろうと思うだけで泣けてきました。
症例検討では、ペット目線・人間目線になって「どうしてあげられたらよりよかったか」についてあれこれディスカッションし、その後は先生の総括の時間になるのですが、そこで先生から
妹のグリーフを軽視しないことと、妹との最後の時間を最大限に評価する点
についての話があり、それを聞いていたら、もうボロボロと涙が溢れて大変でした。
誰もが自分を責めてしまう時には視点がギューーッと狭くなります。
さらに、その痛みが大きければ大きいほど、後の人生にも影響を与えるものになります。
そして「罪の意識」というのは、自分を責めることはあっても、人に伝えることができない重たいもので、ただひたすらに自分を痛めつけてしまいます。
抱え込んでしまうんですよね。
とてもじゃないけれど「助けて」って言えません。
だからこそ、哀しみや自責の中にいる人の見えなくなっている視点から、愛を持って
あなたはこんなに素晴らしいことをしていたんだよ。
あなたがいてくれたから救われたんだし、出会いの奇跡は「あなただから」起きたんだよ。
という事を、優しく柔らかく包むように届ける人がいることで、未来に自分の可能性を狭めずに自分を許して歩ける「力」になれます。
どんな出会いにも必ず別れがあります。
なぜなら、この世界にいる全ての命には、必ず「死」があるから。
命そのものが終わりを迎えなくとも、関係性の「死」が起きれば、別れを余儀なくされてしまいます。
それは本当にいつだって悲しいものです。
でもね、別れる前には「出会う」という出来事があるんです。
それは、あなただから出会えたんです。
あなただから「奇跡の出会い」をしているんです。
私はもう大人になってしまって長い時間が過ぎ、子どもの時の柔らかい心や感覚が抜けてしまっている部分も沢山あるけれど、私は子ども時代に
誰かにただ「それでいいんだよ」「それは辛かったね」「あなただから出会えたんだよね」と、優しい言葉で包んで欲しい
と思っていました。
かけて欲しかった言葉、向けて欲しかった視線、だだ背に当ててもらえる暖かい手のひら、理解しようとしてくれる気持ち。
それを私はこの先も忘れずに、優しい視点を持つ「大人」として想像力をなくすことなく、思いやりを持てる人間になりたいと思っています。
言葉ではなく、柔らかな視線だっていいんです。
気の利いたアドバイスじゃなく、思いやって差し出す手のひらが染みる事で救われることがあるんですものね。
なんだか支離滅裂ですが、改めて自分がどうありたいのかに気付けた、とても実りのある時間でした。
私は不完全な人間なので、目指す「私」にはなれないとは思います。
だけれど、その目指す私に少しでも近づくこと、が自分を”磨く”ということなのかな?
なーんてね。
ではでは。
金曜の夜。私もあなたも、今週一週間、お疲れ様でした♡