先のことを考えると、足がすくんだり怖れに足踏みすることがあるけれど、でもどうか心配し過ぎないでね ~過去の私に届けたい「大丈夫」~
先ほどYahoo!ニュースで「九州と山口に線状降水帯予報」という文字を見ましたが、私たち3魂が暮らす新潟も『日本海側』なのでそれなりの雨予報。
日本全国が雨に覆われるような天気予報ですが、雨の被害が強そうなエリアが「通り過ぎたらあまりひどくなくてよかったねー」と言えるような雨足でありますように。
予報通りに朝にはすでに雨が降りだし、朝から気温も上昇。
体感温度以上に『湿度』が高いからじっとりしていて、仁くんは朝早くから「はぁ、はぁ」としんどそうでした。
なのでまだ夜が明けきらない時間に首に巻いている保冷剤を交換し、同時にエアコンと扇風機をON。
設定温度は28度なので決して強いエアコンではないけれど、除湿機能が効いてくれて、仁くんは健やかに寝息を立て始めました。
今日も私が仕事をするこたつテーブルの後ろの「人が座ることができるというオプション付きの大型爪とぎ(別名:ソファー)」の、仁くんがお気に入りのクッションの上で冷風を小さな体全体に浴びるようにしてお昼寝。
以前、僧帽弁閉鎖不全症が悪化していた頃に獣医さんから言われたのは、呼吸がしんどいワンチャンの入院スペースは「冷房を21℃位にしてキンキンに冷やします」とのこと。
保冷剤を首に巻くテクも、獣医さんから教えてもらったのですが、仕事をする私は冷風を少しでもしのげるように長袖の羽織物をして膝掛をするのに対し、仁くんは体全体で冷風を浴びて気持ちよさそうで、温度差にクスクスと笑みがこぼれます。
いよいよ暑さも増していく時期ですし、上手に休憩やクールダウンをしながら、暑くなりそうな今年の夏も乗り切っていきましょう!!
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私は「グリーフケア」を学んでいます。
グリーフ(喪失)ケアというのは、大切な存在を『喪失した後』のケア・サポートですが、当然ですが『予測できる喪失』の場合であれば、喪失体験をする前からケアや理解者がいてくれる方がグリーフからの回復は早くなります。
とはいえ、回復までの長さや辿る道は、みんな人それぞれ。
感情的な面での「悲しさ」「後悔」「焦燥感」というのは気持ちの良いものではないから、少しでも早くそれらの感情を手放したいと思うものだけれど、心が回復していくまでの時間が『早いから優れている』『早ければ早いほどいい』というものでもないんですよね。
みんなそれぞれに「かける時間」「かかる時間」が違って、それぞれがみんなそれぞれにベストなんですものね。
グリーフケアを学ぶ中で出会った言葉に「スピリチュアルペイン」というものがあります。
“愛着の対象”が、死別により失われた時、過去に惹かれる思いや、または過去との対比で起こる「生」や「生の意味・生きる目的」、「死の意味」などに関する(いうなれば「魂」の苦悩により起きる)心模様を”遺族期のスピリチュアルペイン”と定義する。
(引用:宮林幸江 ホスピスと在宅ケア 2016発表レポートより)
ザックリ言ってしまうと「生きる意味や価値を見失う苦痛」なのですが、普段、健やかで順調な「普通に当たり前の毎日」を送っている中では出てこないものです。
病気や死といった大きな出来事を前にすると、生きる意味について考えることが出てきますが、大きな病気や死の体験ではなくとも「自分の人生に立ち止まったり傷ついたりした時」に、ふと生きる意味や人生の目的などの「魂レベル」での大きな考え事をすることがあります。
誰しもが、普段は意識していないけれどふとしたきっかけで「スピリチュアルペイン」を感じることがあるんですよね。
その「スピリチュアルペイン」について、先日読んだ「看護師・僧侶・スピリチュアルケア師」といういくつもの顔を持つ玉置妙憂さんの言葉をきっかけにして、私なりに色々と感じたり考えたことがありました。
「この先」のことを思いわずらう人は多いものです。まだ見ぬ「最期」について、ついつい考えてしまうことだってあるでしょう。
でも、どうか心配をしすぎないでください。人間は、自分で後始末ができるいきものです。
命を終えることに、難しい技術も訓練も、リハーサルも、必要ありません。人は誰でも、そのときがくれば、まるで呼吸をするように、自然に旅立てるようになっています。
(引用:尼僧看護師がみつけた心の痛みがきえる28の言葉 / 玉置妙憂さん著)
「この先」である「最期」についての思い煩いはいらないよ、ということが書かれている言葉ですが、私たちは別に「最期」じゃなくとも、未来のことや分からないことを思い煩い、苦しみ、その場で足踏みしかできずに途方に暮れることがあります。
私も過去にいーーーっぱい、悩んで立ち止まって、そしてこの先どうなるんだろう?と不安でいっぱいになって身動きが取れない経験をしてきました。
この先の人生にも、ビビりで石橋叩キンヌな性分の私は、分からないことにビクビク怯えておそるおそる進む…ということもきっとたくさんあるでしょう。
でもね、確かに妙憂さんの言葉のように「この先を思い煩ったとしても、心配しすぎないでね。大丈夫、人はその時が来ればなんとかやれる」んですよね。
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私は数年前のハロウィンの日に離婚をすることが出来ました。
とはいえ、離婚という決断をするまでには「ちょっ!長いでしょ?!」と呆れられちゃうくらい足踏みして執着し、全然決断ができませんでした。
その時間、なんだかんだと5年以上。
結婚していたとはいえ私には子どももいなかったので、離婚する=恋愛で別れることと似たもの、のような感じだったはずなのに、これがどうして…
私は「結婚してできた私の最大の味方」「私が一番に帰れる安心できる存在」を失うことが怖くて、彼の手を離すことが出来ませんでした。
もちろん、彼のことが大好きだったのが一番大きな理由ではありましたが、それだけではなく
離婚して一人になる未来
というのが、本当に本当に怖かったんです。
幸いなことに実家も近くにあり、両親も健在で私のことを理解してくれていますし、妹たちも力になってくれます。
会社員としての仕事も辞めずに続けていたので、生活だってとりあえずできます。
なのに、心理的な距離が一番近い存在だった「愛する人」を失うのは、自分を失うことと同じだと思っちゃうくらい、辛くて怖いことでした。
その「失う恐怖」をもう少し掘り下げてみると、こんなに大好きな彼以上に好きになれる人には出会えないんだろう、という恐れがいました。
離婚した後でも出会っていいし、また恋をしたり結婚生活を送ってもいいのに、人を好きになるって理屈じゃないからこそ、誰かを好きになることができなかったらずっと孤独…と、分からない未来のことを考えては震えました。
夫婦問題の中にあった5年間は、世界には色がなくて、常に思考がフル回転で、なんとかしなくちゃ!私が変わらなきゃ!ともがいて努力して頑張り続けた時間でした。
通り過ぎてきた今の私は「あの時間があって学んだこと」があったから「今」につながっていると思えるようになれていますが…
渦中にいる時には、全然この時間の意味なんて分からなかったし、とにかくちょっとだって幸せではありませんでした。
幸せどころが「世界一不幸な私」だとすら思っていました。
いやはや、人生万事再考が馬という中国のことわざ?お話にもあるように、渦中では災いにしか見えないようなことも、時間や視点が変わると必要なこと・良きことに変化するんですよね。
だから人生は、何があっても面白いのだけれど。
そして私は、大き過ぎる不安で身動きもできず、血反吐を吐く思いの毎日を生き…
とてつもなく「離婚」を怖れていたたけれど、大丈夫でした。
テヘペロ!
いやほんと、妙憂さんの言葉の「でも、どうか心配をしすぎないでください。人間は、自分で後始末ができるいきものです。」の通りだなぁって思えたんです。
感情の後始末だったり、思考を使って納得したり。
時間の力を借りて痛みの角を丸めていけたり。
別の道を歩いても幸せを見つけたり。
怖れていたことが現実になっても、私たちはその中でなんとかして順応していくんですもんね。
私の中では「離婚」ということが今までの中で一番大きな怖れと痛みではあったけれど、振り返ってみると今まで生きてきた人生のその時々の中で「これが一番大きな越えられない試練ではないのか?!」と思うことも越えてきたから、今こうやって生きているんですものね。
私は高校受験を失敗して1浪しているのですが、その時も「終わった…」と打ちひしがれたけれど、現実には「怖れていたはずの高校生活は楽しかった」ですし、離婚してからの今も、やっぱり「楽しいし幸せ」です。
うーん、高校にストレートで合格できたり、結婚生活が続いていたら、また他の喜びや楽しさがあったともおもうけれど、
うん、どっちにしても大丈夫だし、どっちにしても幸せになっていいんだもんね!!
とかなんとか言っていますが、恐れや不安の渦中にある時は、理由や理屈なんかなく「とにかくつらい」んですよね。
うんうん、こわいよね。不安だよね。
にっちもさっちもいかなくて、考えれば考えるほど首が回らなくなって足踏みしかできなくなるよね。
でも、どうにかならないことなんて、あんまりないのかもしれません。
究極、私たちは「死ぬ」とうことだってリハーサルなしでもちゃんとその時に順応して、ちゃんと旅立てるみたいですし、ね。
不安がっていても私たちはきっと、いざそれと対峙しなくてはいけない時には、何とか乗り越えることが出来る力を持っているんです。
今までそうだったように、これからだって、ちゃんと乗り越えられる。
怖れていた世界は「勝手に怖れているから大きな恐怖」になっていて、それはもしかしたら影絵のようなものなのかもしれません。
光の当て方で小さな物の影が大きく見えるように、悩んで怖れている時には、どんどん膨らんで凶暴で強くて大きな不安に化けていっている…のかもですね。
怖れの種は小さな仁くんサイズのはずなのに、焦点を当てる角度によって大きく膨れてオオカミに見える。
中くらいのギンちゃんサイズの不安の影が大きなライオンに見える。
それくらい「勝手に妄想を膨らませて、実態を大きくしちゃう」のが怖れなのかもしれません。
今もしあなたが、思い煩う事がたくさんあって身動きできず、怖れから足踏みして苦しんでいるのだとしても、きっときっと大丈夫。
今すぐ大丈夫じゃなくたって、それでも大丈夫だから、ね。
私は足踏み期間が5年で、それは人から見たら「無駄な時間」「もったいない時間」だったかもしれないけれど、足踏みして硬くかたく足場を踏み固めたからこそ、私にとってベストなタイミングで自分の人生を決める勇気が持てました。
人によってその時間も、通り道も、方法も違うのは当然ですから、あなたはあなたの歩みをすればいいだけです。
そして不安がせり上がってくるたびに「この先のことを、どうか心配しすぎないでね。なんでかは分からないけれど、どうやら大丈夫みたいだから」って、自分をギュッと抱きしめてあげてください。
本当に、大丈夫だから。
私もあなたも、自分が思っている以上に「未来に順応できる素晴らしい存在」だから。